2009.9.1の続編です
広島の平和公園
実はこの公園は、直線 で構成されてます・

献花されてます
お水が常に慰霊碑のところにあります
きっと、さぞかしお水が欲しかったのでしょうね
戦争・紛争にない世界になることをお祈りします
原爆死没者慰霊碑は、犠牲者の霊を雨露から守る為、植輪の家形にデザインされました
正面から原爆ドームが望めます



原爆ドームの対岸には
広大な敷地を持つ平和記念公園が広がっている
原爆死没者慰霊碑
原爆ドーム
全てが一直線になってます
被爆者の遺品や原爆に関するパネル展示などがある「広島平和記念資料館」、白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんと、犠牲になった多くの子供たちを慰霊するために建てられた「原爆の子の像」、レストハウス近くにある「平和の灯」などもあります。
★ 原爆死没者慰霊碑のウンチク★
原原爆死没者慰霊碑(げんばくしぼつしゃいれいひ)は、
建立の経緯
慰霊碑は1949年に成立した広島平和記念都市建設法の精神に則り、建立が計画された。
慰霊碑の設計は丹下健三(当時東京大学助教授)が担当。平和記念公園の敷地内の、広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に設置されている。原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、屋根の部分がはにわの家型をしている。中央の石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められている。
慰霊碑のデザインは、丹下健三が推薦した前衛彫刻家イサム・ノグチの案にいったんは内定した。ノグチのデザインは、原爆ドームを望む巨大なアーチ型の碑で、地上部分だけでなく大きな地下空間をも擁するものであった。しかし、丹下の恩師でもある岸田日出刀らが、日系アメリカ人というノグチの出自を理由に難色を示す意見を強硬に主張したため、ノグチ案を生かしたかたちで丹下が再デザインすることになった。石室を覆う屋根の部分は、はにわの家型をしており、これは犠牲者の霊を雨露から守主旨だという。建設当時の屋根はコンクリート製であったが、老朽化のため1985年に一時撤去ののち現在の御影石製に改築されている。
当時の浜井信三広島市長は、米国アーリウントン公園の無名戦士の墓の慰霊碑に感動し、広島の慰霊碑にもぜひ碑文を刻みたいと思った浜井がこの碑に盛り込もうとしたのは、「誓い」と「祈り」であった。石室の碑文は雑賀忠義・広島大学教授が当時の浜井信三・広島市長の依頼を受けて提案、揮毫した。
●原爆死没者名簿 ●
原爆死没者慰霊碑に納められる「原爆死没者名簿」は、関係者の申し出により毎年書き加えられている。記載数25万8310人(2008年8月6日現在)は、広島市により確認された「死没者総数」である。新規登録者数の推移を見ると、存命する被爆者が少なくなりつつあることがわかる。
●碑文論争●
原爆死没者慰霊碑の石室前面には、「安らかに眠って下さい過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている。
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」に準じたものであった。
この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については、建立以前から議論があった。1952年8月2日、広島市議会において浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁している。同年8月10日の中国新聞には「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」との投書が掲載された。これにはすぐに複数の反論の投書があり、「広く人類全体の誓い」であるとの意見が寄せられた。浜井市長も「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている。
インド人法学者のラダ・ビノード・バール(極東交際軍事裁判の判事)は、同年11月3日から4日間、講演のため広島を訪問した。慰霊碑を訪れる前日4日の講演(世界連邦アジア会議)でも、「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。」と、原爆投下と、投下を正当化する主張を強く批判していた。そして5日に慰霊碑を訪れた際、献花と黙祷の後に、通訳を介して碑文の内容を聞くと「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と、日本人が日本人に謝罪していると解釈し非難した。(詳細はラダ・ビノード・バールを参照)
これを聞いた雑賀は、同年11月10日パールに「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。との抗議文を送った。
このことをきっかけとして、主語は原爆死没者か日本人かアメリカ人もしくは世界人類か、「誰」が過ちを繰り返さないといっているのか。「繰返しませぬから」か「繰り返させませぬ」かといった碑文論争が行われた。
なお雑賀による碑文の英訳は「Let all the souls here in peace ; For we shall not repeat the evil」で、主語は"We"(われわれは)、これは「広島市民」であると同時に「全ての人々」(世界市民である人類全体)を意味すると、雑賀が1952年11月に広島大学教養部での講義などで述べている。
1970年2月11日には、「碑文は犠牲者の霊を冒涜している」と主張する「原爆慰霊碑を正す会」(岩田幸雄会長、児玉誉士夫顧問、荒木武相談役)なる市民グループによって碑文の抹消・改正を要求する運動が盛り上がった事があった。また、この運動を軍事主義的・民族主義的主張であると反発する市民グループが対抗して「碑文を守る会」を結成し、激しい論戦が繰り広げられた。この運動に対して、時の市長山田節夫は「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」という見解を示した。この見解が出されて以降、碑文の意図するところは、「日本」「アメリカ」といった特定の国の枠を超えて、全ての人間が再び核戦争をしないことを誓うためのものである、とする解釈が公式見解となった。また、1983年には、慰霊碑に主語としてトルマーンと記された札が貼り付けられる事件が発生、これを受けて広島市は、浜井市長の答弁を基にした説明版(日本語と英語で表記)を慰霊碑西側の池の中に設置した。説明板では「碑文はすべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。」とあり、犠牲者への冥福と不戦の誓いの言葉であると解説されている。
以上の経緯を経て、「碑文の主語は人類」が公式見解となり、大きな論争は無くなったと見られたが、現在も碑文は「日本人の過ち」と解釈される、もしくは「世界市民」という思想に批判的などの理由で、広島市側の見解が受け入れられていない事例も存在している。
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