2010年6月アーカイブ

 

 

 

急遽・・・・

 親戚の不幸があり、北海道にあわただしく出かけてしまい・・・

  なかなか、ブログの書き込みも出来ない状態でした・・・・

 

北海道の旅

  葬儀の中での写真撮影のため、あまり沢山は紹介できませんが・・

    ポチポチします

 

 明日から載せます

 

    今日はここまでです

 2009年8月 旅行記から

 

26年の生涯 はあまりにも可愛そうな生涯なのです

  娘がいながら服毒自殺をしてしまう・・・そんな彼女の詩はなんとも暖かいものなのでしょうか?

「わたしと小鳥とすずと」は有名ですが・・・

童謡作家 金子みすゞ 

 長門市仙崎に大きな看板があります

 

 

MEMO0030.jpg『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
 金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。

 そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
 ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。

 それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
 天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

                                 (写真提供:金子みすゞ著作権保存会)

 

★金子みすゞのウンチク★   フリー百科事典参照
 
 
金子みすゞ金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。
生涯★
本名は金子テル。山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津高等学校)卒業。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(テルにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐(雅輔)の養父・上山松蔵とテル(みすゞ)の母が再婚するため、二人は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係でもある。

大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされる。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。

1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する書店・上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は未完)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺する[1]。享年26歳。

 作品 ★
代表作に「わたしと小鳥とすずと」「大漁」などがある。

仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。自然ともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。

 忘却と再発見★ 
 
生家跡に建てられた金子みすゞ記念館金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ児童文学者の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されている。東京大学の国語の入試問題に採用された作品もある。また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されている。

また、長周新聞によると、かつて長周新聞の主幹であった福田正義が矢崎をはるかに遡る1937年、雑誌『話の関門』の中で金子みすゞの生涯と作品を紹介したとしている[2]。ただし、当時の福田の紹介は地元(下関)の雑誌で掲載されたものであり、後の矢崎の紹介ほど広く知らしめるには至らなかった。

 詩作の広まり ★
みすゞの詩は元々曲をつけられることを想定したものではなかったが、詩作への評価の広まりと共に、童謡・歌曲・合唱曲として中田喜直、吉岡しげ美、 李政美、沢知恵、野田淳子を初めとする作曲家や歌手によって広く作曲されている。西村直記、大西進のように、全ての詩に付曲した者もいる。2006年12月には「わたしと小鳥と鈴と」の詩に、作曲家の杉本竜一が曲を作り、テノール歌手新垣勉がアルバム「日本を歌う」内で発表している。この楽曲は、その年のNHK「みんなのうた」でも放送された。またピアニスト・作曲家の小原孝は、2006年、第17回奏楽堂日本歌曲コンクールにおいて「こぶとり~おはなしのうたの一」に作曲し、中田喜直賞を受賞。これを機会に「おはなしのうた」連作5編にすべて作曲している。数々のヒット歌謡の作曲家である浜圭介は、盟友大津あきらの墓所を訪れたことをきっかけにみすゞを知り、その壮大な世界観をフルオーケストラで表現したいと、8編に作曲。編曲・服部隆之、指揮・佐渡裕、演奏・新日本フィルハーモニー交響楽団、テノール・佐野成宏、ソプラノ・佐藤しのぶという豪華メンバーでのレコーディングを経て、CD「みすゞのうた―金子みすゞmeets浜圭介」(エイベックス・クラシックス)をリリースしている。

また、金子みすゞと同じ故郷山口県出身の歌手・作曲家ちひろは、金子みすゞの詩の50編近くに作曲し歌っており、「私と小鳥と鈴と」「星とたんぽぽ」は、歌集「さあ歌おう(山口県版)」に掲載される。CDアルバムも4枚リリースしている。


メディアへの露出としては、ラジオ大阪「1314 V-STATION」の携帯サイト「声優V-STATION」3分ラジオで2003年6月19日~2004年1月5日に金子みすゞの詩を朗読するプログラム「小森まなみのおやすみポエム」が公開され、後にCD化された。TBSラジオのミニ番組「童謡詩人・金子みすゞ」でも詩作の朗読が放送されていた。

また、みすゞの数奇な人生は後に映画・テレビドラマ・舞台などで演じられており、劇中で詩作が紹介されることも少なくない。

 みすゞを演じた人物★
小林綾子 - NHKスペシャル「こころの王国・童謡詩人金子みすゞの世界」(1995年8月27日)
田中美里 - 映画『みすゞ』(2001年、紀伊國屋書店制作、監督:五十嵐匠)
松たか子 - テレビドラマ『明るいほうへ明るいほうへ-童謡詩人金子みすゞ』(2001年8月27日、TBS)
高橋理恵子 - 舞台『私の金子みすゞ』(2002年・2004年、演劇集団 円、矢崎節夫著 「童謡詩人 金子みすゞの生涯」をもとに)
純名りさ - 舞台『みすゞとテルと母さまと』(2007年10月23日-25日、台本・総合演出:鈴木理雄、演出:小笠原響)
斉藤由貴・藤田朋子 - 舞台『空のかあさま』(2001年 - 、作:大薮郁子、演出:石井ふく子)
保谷果菜子-金子みすゞ いのちへのまなざし~詩と歌と物語~
小野山千鶴 - 舞台『金子みすゞ最期の写真館』(2005年 - 作 演出:早坂暁 音楽:磯村由紀子)
 著作権について★
金子みすゞの作品そのものの著作権は作者であるみすゞの死後50年を過ぎており消滅していると考えられるが(著作権の保護期間参照)、作品集を出版しているJULA出版局を窓口とする「金子みすゞ著作保存会」[3]は、みすゞ作品を利用する際には同会の許可を得るよう求めている。その理由としてJULA出版局は、著作の大半が生前未発表であったこと、ならびに未発表作品を一般に広めるきっかけとなった『金子みすゞ全集』(JULA出版局)による二次的著作権の存続を挙げている。このこともあり、みすゞ作品は青空文庫にも収録されていない[4]。 この点には、矢崎ら「金子みすゞ著作保存会」の姿勢に対して疑念を持つ者も存在し[要出典]、福田による紹介を取り上げた長周新聞も、著作を独占しているとして矢崎を記事内で批判している[5]。

 脚注 ★
1.^ カルモチンを服用したとされる(『金子みすヾ童謡集』内の矢崎節夫による解説)。
2.^ 『話の関門』を探し出そう参照。自殺当時のマスコミの扱いや遺族についても詳しい。
3.^ 「金子みすゞ著作保存会」には作品の紹介に貢献した矢崎の他に、みすゞの実子(娘)も関わっている。
4.^ 青空文庫公式サイトでは、「作者の死後、関係者の努力によって発掘された経緯を踏まえ、取り組むか否か検討中」としている。
5.^ 長周新聞の記事"『話の関門』を探し出そう"に記述あり。矢崎ではなく福田を第一発見者と主張する趣旨の記事だが、矢崎の姿勢そのものに対して「大きなもうけのため」としており、反資本主義的な見地からの批判を含んだ内容となっている。同紙の主幹だった福田は、日本共産党 (左派)を興して議長職を務めた経歴を持つ共産主義者であり、紙面の論調にもその影響が強くある。詳細は長周新聞の項を参照。


 

2009年8月 旅行記から 

昨日の陶板モニュメントの隣には
夏みかん・橙・柚子・ポン酢・調味料の製造販売/株式会社柚子屋本店


敷地内に設置されている黒御影石で作った「笠山日時計」は必見!です

●住所 : 萩市越ヶ浜明神池上る 
 

MEMO0010.jpg笠山日時計
笠山日時計は今から350年ほど前、朝鮮の宮廷内外で公衆時計として使われていた日時計の複製品です。
釜が天空を仰ぎ見る姿の日時計という意味で仰釜日晷(ぎょうひにっき)と呼ばれます。くぼんだ半球型の受影面に特徴があり、太陽が投影する影針の影で時刻と季節の両方を瞬時に知ることができます。
仰釜日晷(ぎょうひにっき)天文学を大いに発展させた李王朝第4代世宗王(1418年から1450年)が開発した。17世紀半ばに西洋式の時刻制度が導入されて制作した仰釜日晷(ぎょうひにっき)が現存しており、韓国の国宝(宝物845号)となっています。
現代の時刻制度は「平均太陽時」を使用してます。日時計は時刻を現代時刻と照合する場合には、「真太陽時」を「平均太陽時」に換算する必要があります。この換算のため「時差補正表」が石盤の前面に刻まれています。
詳しくはポケット冊子{笠山日時計}解説(別売り)をご覧ください。

 

  

 

お店ののぼりが画像に後ろに見えます・・

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 かなり有名な日時計とのこと

 

 韓国製のオリジナルの仰釜型日時計は

日本では、精巧に製作された

仰釜型日時計が山口県萩市の

「柚子屋本店」にあり、「笠山日時計」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

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時差補正表です 

 

 

   

 

★韓国の日時計のウンチク★  日時計と旅人ブログより参照

韓国の日時計は半球型の釜のような独特の形をしている。半球型の日時計は日本やヨーロッパはもちろん中国にもなく、韓国のみに現存する特別な形の日時計である。半球の直径はソウルの世宗大王(セゾンデワン)記念館の前にある模造品は80cmほどの大きなものであったが本物は30cm程度のものが多く、3cm位の小さなものもある。
 韓国の日時計は、「仰釜日晷」と書き、Aug Bu Il Ku(アウ ブ イル ク)と読む。「晷」の字は日本語にはなく、咎めるという字の上に日のような字を加えたものであるが、以下は便宜上、仰釜型日時計と書くことにする。「仰釜」とは底のくぼんだ釜が天空を仰いでいる形をいい、「日晷」とは太陽の影のことである。

 仰釜型日時計の特徴は、半球型のくぼんだ受影面にある。半球内面に投影されるノーモンの影の動きが天空の太陽の動きと相似しており、水平面型日時計に比べると太陽の位置とノーモンの影との関係がよくわかる。
 半球型にくり抜かれた内面に時刻線が定時法に基づいて縦線で描かれている。1日は12時間で96刻法(朝鮮後期の時間制度)になっている。日時計の一時(いちどき)が現代の2時間に相当し、一刻が15分に相当する。詳細については後述する。

 なお、2003年10月4日に開催された日本日時計の会の総会に続く研究発表会で、西山峰雄氏が、2002年7月2~5日に韓国清洲で開催された「アジア太平洋地域の天文機器、古文献」の国際会議で、羅逸星・名誉教授(NHA Tl-Seong, The Nha Il-Sen Museum of Astronomy)が「King Sejon's Sundial, Augbu Il Gui」と題して講演があったと報告され、そのときの英文梗概が配布され、仰釜型日時計のミニチュアが回覧された。

 仰釜型日時計は亀の背に乗っているものが多い。亀は万年生きるといわれている霊獣であり、そのために亀と日時計を組み合わせた縁起の良い置き物にしたものであろう。この形は「世宗実録」(1434年と1437年に発行)という朝鮮王朝の世宗大王時代(1418~1450年)の記録によると元の天文学者の郭守敬(カクシュケイ)が考案したものだという。

 日本で公開されている仰釜型日時計は京都の高麗美術館と上野の国立科学博物館の3階の時計の部にある。ここに2個ある韓国の仰釜型日時計は下記の高麗美術館のものと同じ形であるが、白磁製の象牙色のものと青銅製のうすい褐色である。

 高麗美術館には「白胎青磁亀形日時計」と呼ばれるものが1個あり、18世紀末のものだといわれている。高麗美術館の仰釜型日時計は常時展示されておらず、特別展の時などに展示されるようで、筆者が2003年7月に訪ねたときには展示されていなかった。
 高麗美術館の前に高麗美術研究所があり、文献も所蔵されている。高麗美術館では館報を発行しており、1997年4月1日発行の第34号に、日本日時計の会の後藤晶男会長が韓国の仰釜型日時計について特別講座として寄稿しておられる。この論文で韓国日時計のおおよその知識が得られる。

 また、後藤晶男会長が「モノ・マガジン」別冊の平成4年5月15日発行の第216号から平成4年8月15日発行の第223号まで、日時計について連載されたものの第6回が韓国の日時計で、写真も多く載っている。帝塚山「学園春秋」第21号(昭和58年3月20日、77-88頁)にも「韓国の日時計」として発表しておられる。今回の私の韓国日時計の旅もこれらを大いに参考にさせていただいた。

 なお、韓国の日時計のほとんどは仰釜型日時計であるが、半球型以外の水平面型や垂直面型のものなどもある。
・高麗美術館、京都市北区紫竹上岸町15、 Tel.075-491-1192
・国立科学博物館、東京都台東区上野公園7-20、 Tel.03-3822-0111
「笠山日時計」
 韓国製のオリジナルの仰釜型日時計は日本では前記の数カ所のものが知られているが、精巧に製作された仰釜型日時計が山口県萩市の「柚子屋本店」にあり、「笠山日時計」と呼ばれている。
 萩市と韓国京畿道利川市の市民有志が日韓両国の友愛と国際親善を願い、「韓日ワールドカップ共催」の年を記念して仰釜型日時計を製作することを思い立ち、2002年8月に利川市で製作され、夏蜜柑の加工商品で知られている「柚子屋本店」の敷地内に設置され、2003年9月6日に除幕式が行われた。監修は國守進・名誉教授(山口県立大学)があたり、韓国科学事物研究所(宝物コリア)が協力した。

 「笠山日時計」は今から約350年前、第4代王である世宗が製作した「仰釜日晷」(韓国宝物845号)の複製である。17世紀半ばに西洋式時間測定法が加わり、それまでの「十二時百刻法」が「十二時九六刻法」に修正された後のもので、17世紀後半・李朝時代の宮廷内外で公衆時計として使用されていた日時計である。日時計の本体は韓国で玉石と呼ばれる黒御影石でつくられている。黒御影石は結晶が光を受けて反射し、近くに寄ると見る角度によっては光の輝きが宝石のように美しく変化する。また、熱膨張係数がきわめて小さいので、測定用の定盤や精密機器の台座として利用されている。15分間間隔の「真太陽時」と季節(二十四節季気)を知ることができる。
 
「笠山日時計」の設置場所は、本社工場のある萩市椿東字奈古屋1189(笠山中腹海抜44m)、北緯34度30分、東経131度23分である。JR東萩駅より国道191号線を益田方面に約4km、笠山に向う山腹にある。
・柚子屋本店、山口県萩市椿東2552

★日時計のウンチク★   フリー百科事典『ウィキペディア参照 
 
ベルギーのビュートゲンバッハに設置された精密日時計。誤差±30秒。日時計(ひどけい)は、影を利用して視太陽時を計測する装置。紀元前3000年、古代エジプトで使われていたが、起源はさらにその前の古代バビロニアにさかのぼると考えられる。日晷儀(にっきぎ)、晷針。

古代ギリシア及び古代ローマで改良され完全なものができた。これはアラビアに伝えられた。(アラビアの天文学ではこれをノーモン(gnomon)という。)のちに、機械時計が発明されると、それにとってかわられた。現在は、主に庭園や建造物の装飾の一部として設置される。
概説★ 昼間しか使えないこと、晴天時しか使えないことを除けば、古代以来、誰でも見たり使ったりできる時計は日時計のみであった。現在もアナログ式時計を始めとする各種回転式メーター・つまみ式スイッチ・ねじなどの殆どが、右まわり(時計まわり)に行くと数が増えたり機能として用を足す(スイッチが入る)仕様なのは、北回帰線以北では、常に日時計の針がこの向きで回ったためである。  なお、右利きの人は右回しの力が強いから、ねじなど、右回りが多いとも考えられる。

中世に発明された機械時計は当初、誤差が大きかったので、これを補正するためにも日時計は使われた。

 日時計の設置★
日時計は緯度によって、指針を傾ける角度を変更しなければならない。大量生産された日時計は、設置場所に合わせて角度を変更する必要がある。日時計の指針の角度が固定されていて変更できない場合は、文字盤そのものを傾けて設置することにより補正する。イギリスでは指針の角度は45°のものが普通である。

完全に正確に動作させるには、日時計の指針は正確に天の北極(ほぼ北極星の方向)または天の南極を向かせる必要がある。日本国内では方位磁針の北は、天の北極から数度ずれているので、磁針を使って設置することは推奨されない。

 
均時差表視太陽日は完全には一定ではない。これは、地球と太陽の距離や、地球の運動速度が一定でないことに起因する。これによる補正は最大で16分29秒になる。また、夏時間を採用する国ではこれを補正する必要もある。補正用の表は「均時差表」として日時計に添付され、当日の日付が分かると、日時計の示す時刻から何分加算または減算すればよいか分かるようになっている。

日時計の示す時刻は、設置場所の時刻であるが、日本国内ではこれを日本標準時(明石時刻)に調整する必要がある(その他の国でも、必要であれば、それぞれの国や地方の標準時刻に調整する)。日本標準時との差は、設置者が計算しなければならない。5°ごとに20分の差が生じるので、たとえば明石から東へ5°離れた東京では、日時計の時刻から20分を減ずる。固定式日時計では、この差は均時差表の中に組み入れるか、文字盤の時刻をずらすことにより修正する。ただし文字盤の表示をずらす方式は、真ん中が12時ちょうどにならず美しくない。

 形状による分類★
 
コマ型日時計
赤道式日時計
垂直式日時計
垂直式日時計。徳島県文化の森総合公園内のオブジェ
旅行者用のリング型日時計(開いたところ)。実際には閉じて平らなリング状にすることができる
極軸式日時計
カルジオイド日時計

 コマ形日時計★
最も単純な日時計は、板の上に垂直に棒を1本立てたものである。アラビアの天文学ではノーモンという。このまま指針を天の北極に向ける。文字盤の目盛りが均等になるという表示上の利点がある。この型のものを日本語ではコマ型日時計という。形状は、丸い円盤の中心に棒を差し、そのまま斜めに立てかけたものを連想すると分かりやすい。

 赤道式日時計★
コマ形日時計に似た形式のもので、赤道式日時計がある。文字盤がボウル状になっているだけで、目盛りの振り方は同じである。この形式のものは、第一次世界大戦前まで、フランスで列車を正確に走らせるために使用された。最も正確な日時計はイスラム教の宗教暦(ヒジュラ暦)上の日付をはかるためにインドのジャイプールの権力者(カリフ)が石で造った赤道式日時計である。これは記念碑をも兼ねている。

 垂直式日時計 ★
建築物の壁にとりつけるものもある。この場合、文字盤の目盛りは三角関数を使用して計算されるため均等にならない。製造者たちは板を文字盤(face)、棒を指時針(gnomon)と呼ぶ。板は明るい色が望ましい。これは影が暗いためである。棒は、棒でも構わないが、強度の問題があるため、三角形の板状にされることが多い。これをさらに金属で補強することもある。最高級品は大理石で製造される。腐食を抑えるためブロンズで製造されることもある。この構造のものは日本語では垂直式日時計という。建造物が完全に真南を向いていなくても、設計により補正は可能。ただし、1日で最大12時間までしか表示できず、本体が建物自身の影に隠れると使用できない。これを防ぐには複数の壁面に日時計を設置することになる。日本にはあまり見られないが、ヨーロッパ諸国では、多くの人が見られるよう、教会の壁などに巨大なものが設置された。日本では大阪造幣局前の道路にあるが指時針は失われている。以前は造幣局近くの桜宮橋たもとにあったが、いつ・誰が設置したのか分かっておらず、新桜宮橋を架けるため現在の場所に移設された。

 庭日時計 ★
庭日時計は最も一般的なもので、文字盤の目盛りは垂直式と同じく三角関数を使用して計算されるので均等にならない。原理は垂直式と同じである。文字盤は地面と平行に取り付ける。地面そのものに設置するのではなく、台をつくりこの上に設置することで、見やすくなる。文字盤をガラス板などで作り、高い地点に設置することにより、下方から見上げるよう設計する方法もある。太陽さえ出ていれば、1台で日の出から日没まで使用できる。

この構造のものは、日本語では水平式日時計という。日本では垂直式よりはこちらのほうが多く設置される。

 携帯日時計★
携帯日時計は野外天体観測のため、または宗教的行事を行うために中世に開発された。最も成功した携帯日時計は、ディプティクという、2枚の文字盤が、ヒンジで固定されているものだった。指針は、文字盤の間に通された紐である。紐がぴんと引っ張られたときに、2つの文字盤はそれぞれが水平式と垂直式の文字盤となった。最高級品は、白い象牙に黒のラッカーで文字を記したもので、紐は絹糸かリンネルで作られた。

ディプティクのヒンジが地面と平行で、2つある文字盤が同じ時刻を指したとき、時計は正確に視太陽時を示した。さらにこのとき、ヒンジは真北を示す。またこのとき、紐でできた指針と地面との角度は、その地の緯度をも示すことになる。

2つある文字盤による調整は、正午前後と日没直前、日の出直後は使用できない。しかし、午前9時か午後3時ごろの誤差は4分である。

これは、ディプティクが、方位磁針や緯度計測器の役目も果たしたということを意味する。いくつかのディプティクは、緯度計測のために、目盛りとおもりのついた紐もついていた。また、地理的な角度測定をするための羅針図付きのものもあった。大きなディプティクは古代において(船などの)操縦に使用された。小さくポケットサイズのものもあった。

最も小さな携帯式日時計は、穴付きの突起がついた指輪や、ネックレスにつけられた装飾だった。これは日時計を所持していることを知られないようにするための細工でもあった。日光に当てると突起部分の影は指輪自身にかかり、その内側に記された目盛りで時刻を知ることができる。この形状のものは、観測者は今が昼か夜か、午前中かどうかは知っている必要があった。突起についた穴の位置は緯度により調整する必要があるため、この部分は動かして穴の位置が変えられるようになっていた。これは主に塔などに幽閉された人物などがこっそり使うためのものだった。

最近は、アメリカ軍の特殊部隊員の間で、ナイフに日時計を刻むのが流行している。万一、機械時計が故障しても、これは動作するためである。

日本では、江戸時代に紙の携帯式日時計があった。これは、指針の部分がこよりになっており、立てて影の長さでおよその時刻を知るというもので、当日の日付さえ分かっていれば、それなりに正確に時刻を出すことができた。これは旅人が好んで使い、シーボルトの記述にも残っている。

 柱型日時計★
古代ギリシャ人は、柱型日時計(plekhnaton)を開発した。柱型日時計は、水平または椀状の文字盤に、垂直な指針を立てたもので、指針の影の先端が時刻を示す。太陽の高さは季節により変わるので、同じ時刻でも影の先端の位置は変わる。そこで、毎日、同一時刻の影の先端を結んだ線を文字盤に刻めば、補正なしで1年中どの日の時刻も示すことができる。もちろんこの文字盤の線は現代ではあらかじめ計算が可能である。柱型日時計には、晴天時に文字盤の上に人が立つと、その影の先端が時刻を示すという、「かげぼうし日時計」と呼ばれる、面白い構造のものもある(後述)。柱型日時計は、季節により太陽の位置が変化するため、文字盤の表示が複雑になるという欠点がある。通常は、文字盤を2枚用意し、半年ごとに取り替えることで、文字盤の複雑性を回避する。

非常に正確な柱型日時計は、公的広場に文字盤を描き、旗竿のポールを指針にする。

 室内柱型日時計★
アイザック・ニュートンは、南に窓がある部屋用の室内柱型日時計を開発した。これには柱がない。窓から入った光を、固定した鏡で受け止め、天井と壁に文字盤をつくった。指針は、鏡によって反射した光そのものである。鏡が小さければ、光の点となって天井や壁を照らすため、これを利用した。毎日定時ごとに天井に印をつけていき、1年かけて時計は完成した。この時計は驚くほど精密に動作した。

その後、1943年に、オルシュティンにあるニコラウス・コペルニクスの居城オルシュティン城で、同じ原理のものが発見された。このため、この型の日時計の発明者はコペルニクスとされる。コペルニクスのものは、城内のある場所に鏡を置くと、反射した光が壁の印を伝うというものだった。ただし、コペルニクスは、1日の間で時刻を知るためにこれを用いたわけではなく、1年の長さを厳密に求めるために使ったと考えられる。しかし、1年という巨大な時間を厳密に計測するための装置であるので、これを日時計と呼んでも特に問題は生じないだろう。

 かげぼうし日時計 ★
かげぼうし日時計(アナレマチック日時計)は、英語ではカルジオイド日時計と呼ばれる、柱型日時計の一種である。

これまでの固定型日時計は、指針は文字盤に固定されているのが普通であるが、かげぼうし日時計は、指針が固定されていないのが特徴である。この型は、日付により指針を立てる位置を若干微調整することにより、正確な時刻を求めることができる。多くの場合、観測者自身が文字盤に書かれた日付の上に立ち、その影が時刻を示す。

柱型日時計は、文字盤がかなり複雑になる傾向があるが、この型は文字盤がきわめて簡易である。この型の日時計は、単に地面に文字盤が描かれているだけで、指針が存在しないためである。日本では、西脇市黒田庄町と瀬戸市民公園にあるものが知られている。

 正正午 ★
現代、東洋のいくつかの国[誰?]の郵便局は、正午のみを示す固定式日時計を使用して局内の機械時計を合わせている。

さきにも述べたとおり、地球の運動速度が一定でないため、太陽は正午に真南に来るとは限らない。しかし、毎日、正午に日時計の指針の先端の位置を記しておき、これを1年続ければ、翌年以降も正午のみを示す日時計を作ることが可能である。さらにこの影の位置を天文学的な計算から算出し、正午専用日時計をあらかじめ作って設置することも可能である。正午ちょうどの太陽は、数字の8の字を寝かせたような、不規則な位置の変化(アナレンマ)をしたのち、1年かけてまた元の位置に戻る。

(2009年8月 旅行記から )

 萩焼きの陶器は有名  そこで紹介

現在ビール工場は閉鎖になってました

そして、駐車場にあるので、気になる人しかわからないくらいに、山沿いに立て札があります

 

 

 萩の空から 萩の土から

  萩陶器板モニュメント

農民画家メレー「種蒔く人」を題材としており、萩焼当番357枚でつくられてます。

大型の陶器作品は萩焼きではまだ例が少なく多くの人々に萩焼の魅力が伝わること願い、ここ北長門海岸国定公園内の笠山に設置しました。モニュメントの前の畑には 萩ビール村塾に使用してる二条大麦を植えています。

萩焼は2002年1月国の伝統的工芸品として指定を受けてます

 

設置年月日  2003年11月

陶板制作者 樋屋勝枝

本体構造 鉄筋造り(幅5.17m、高さ7.48m、鉄筋重量3トン)

陶板寸法 全体(幅4.6m、高さ5.6m、陶板の総重量643kg)

       1枚(26.5cm☓26.5cm☓暑さ1.5cm)

陶板枚数  357枚(ヨコ17枚☓タテ21枚)  

 

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 その、陶板はこれです

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 本当に、あるので宣伝用の看板にしかみれません

 

多くの観光客の脚光はあびず、

  ひっそりしてます 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 人が前に立って

 遠近法でこの大きさ

 

  かなりの大きさです・・・

 

 1枚1枚が陶器で焼いてあるのです

  陶器も1枚が同じ色ではなく

   濃淡があり、かなりのすごい技

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 ★萩焼のウンチク★  フリー百科事典参照
萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器。一部長門市・山口市にも窯元がある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。

古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、模様は地味だが根強いファンが多く、市内界隈には新規を含め、多数の窯元が存在する。

 歴史

萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出したが、李勺光の系統、山村家は後に断絶した。一方で、明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立する他12代坂倉新兵衛が人間国宝の候補になるなどして萩焼を中興している。文化財の指定は意外と時間がかかっており、2002年1月に漸く、経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けた。

 

 [ 日本大百科全書(小学館)[ 執筆者:矢部良明 ]参照
 ]
萩焼(はぎやき)山口県萩市・長門(ながと)市で焼造される陶器。桃山時代の天正(てんしょう)~慶長(けいちょう)年間(1573~1615)、萩藩主毛利輝元(てるもと)が、朝鮮半島から帰化した陶工の李勺光(りしゃっこう)・李敬兄弟に御用窯として開窯させたのを発祥とする。萩城下坂下の東郊松本村中之倉(現萩市椿東(ちんとう))に築窯したので、この系列窯を松本萩といい、李敬を陶祖とした。これに対して兄勺光の一族が1653年(承応2)深川(ふかわ)村三之瀬(そうのせ)(現長門市)に分窯した系統を深川萩という。松江重頼(しげより)著『毛吹草(けふきぐさ)』に萩焼の名がみえ、都でもその存在が知られていたことがうかがえる。1663年(寛文3)三輪休雪(みわきゅうせつ)が松本に三輪窯をおこし、松本・深川の二系統が併存して今日に至っている。

初期萩焼窯とされる松本萩の坂窯の発掘では、茶碗(ちゃわん)、茶入、花いけなどの茶陶に加え、大量の日常雑器が出土している。また釉(うわぐすり)にも褐釉(かつゆう)が加わって今日の萩焼とは大きく異なり、唐津(からつ)焼や高取(たかとり)焼と同様に多様な作陶内容を示しており、藩窯でありながら一般庶民向け焼物も生産対象にあったことが推察できる。

防府(ほうふ)で出土する大道土(だいどうつち)を用い、特有の藁(わら)灰質の白濁釉をかけた、茶陶としての作風が樹立したのは江戸前期と思われ、茶人の間では「一楽、二萩......」と賞玩(しょうがん)された。びわ色の釉をかけた茶碗はわびの風情に満ち、使うほどに釉色が変化するところから「萩の七化け」の俗称がある。遺品には三島(みしま)・粉引(こひき)・刷毛目(はけめ)・井戸・熊川(こもがい)などの高麗(こうらい)茶碗を写したものが多く、割高台(わりこうだい)にも特色がある。

 

 

横浜は午後7時ころから雨

  天気予報でも、雨だったのです

 

    用事があり、自家用車で出かけたかったのですが・・・

      そばにはあいにくに駐車場がなく・・・

         そこで、ミニカーの出番です

 

今まで、雨の日には乗ったことがなかったのですが・・

   今回は、雨体験をしました。

 

 

結構すごい・・雨には足だけぬれて、そのほかはぬれずにすみました

 

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結構お役立ちでした。

 

以前に紹介したのですhttp://yokohama-runrun.jp/2009/04/post-48.html

 

 

 

 

 

 

                                                            

 指圧手袋が大人気

★いつでもどこでもポイント押しができる手袋

 

◆がんばって ツボマッサージが気持ちいい


 トルマリン入り指圧用手袋 手袋にツボが押しやすい突起がついているので、

              簡単に つぼマッサージが出来ます。

 

◇手袋にツボが押しやすい突起がついているので、簡単にツボマッサージが出来ます。 

                トルマリン入樹脂使用 (指圧用手袋両手入)

 


 ◇テレビ、雑誌でおなじみの五十嵐康彦先生もおすすめ!

 五十嵐康彦先生著の参考書:「足つぼ・リンパマッサージ」 「すぐできる足もみ健康法」高橋書店

 

 

 

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20100609202032.jpgもんでもんでがんばろう!

 いつでも・どこでもツボ押し元気! 

   通勤時間・会社のお休み時にホッと一息・どこでも簡単!

◆使い方: 手袋各指の先端まで指をしっかり入れて指圧部を各指の先端中央にして下さい。
指圧の強さにはご注意下さい。小さいお子様には使用しないで下さい。洗濯機使用時にはネットに入れてください。

オフィスで・・お勉強中に・・肩、首を手で"コリコリ"している方におすすめです。 固い肉球があなたのつぼにメガヒットします。

■がんばって の仕様
材質:綿100% トルマリン入り樹脂
サイズ:M、L
肉球の色 M:赤 L:青

 

感想は、軍手素材の手袋のため、指が手袋の中で動いてしまい、全体のポイントをつかみづらい・

手などをするには良いですが、首・頭などはずれてしまうようです・・・

 

 

      紹介されました。NHK おはよう日本『まちかど情報室』

 / 朝日テレビ スクランブル / 朝日テレビ スーパーモーニング / 日本テレビ スッキリ / PHP研究所「THE21」2010年5月号

 

★指圧のウンチク★ フリー百科事典参照

指圧(しあつ)とは、疾病の予防並びに治療を目的に、母指を中心として四指'並びに手掌のみを使用し、全身に定められたツボと呼ばれる指圧点を押圧しその圧反射により生体機能に作用させ、本来人間のからだに備わっている自然治癒力の働きを促進させる日本独特の手技療法である。


概要 ●
指圧の定義は、昭和32年(1957年)12月、当時の厚生省(現厚生労働省)医務局医事課より発行された『指圧の理論と実技』という教本の中に明記されており、その全文は次の通りである。

「指圧法とは、徒手で母指、手掌等を用い体表の一定部位を押圧して生体の変調を矯正し、健康の維持増進をはかり、または特定の疾病治癒に寄与する施術である」
関連法規 ●
「マッサージ#無資格者と名称問題」も参照

日本では、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年12月20日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ指圧業として行う事は出来ない、又は金銭、金品の授受がなくとも継続的に行うことは出来ず、刑事罰対象及び法律違反になる、違反者は50万円以下の罰金である。

尚、法的には従来通り指圧と表記して無資格者が指圧を行うのは違法であり、厚生労働省通達でも保健所への取り締まり強化を指示している。これは、正規国家資格保持者と無資格者を世間が混同せぬよう、また施術行為を広告で明示する事で世間の混乱を抑える役目が期待されている。しかし近年、無資格者による指圧業が数多く行われてきており厚生労働省や国会でもあん摩マッサージ指圧師法の改正に向けた準備の質疑応答や議論がなされてきている。

 足つぼマッサージ●
名称はマッサージであるが、その手技は明確に「指圧」そのものである。一般人が理解しやすい名称としてよく使われている。例としては中国式足つぼや台湾式足つぼや英国式リフレクソロジー等である。

 歴史●
指圧の原点は手当てにはじまる。日本では、有史以来様々な手当て即ち手技療法が営まれてきた。明治以降になりアメリカの3大手技と呼ばれるカイロプラクティック、オステオパシー、スポンジロセラピーが次々に流入し、日本に古来から伝わる様々な手技に加え、伝統中国医学が伝来した按摩や導引按蹻、活法なども融合された結果、一時は300種以上の多種多様な手技が療術として混在していたが、大正9年(1920年)頃には既に現在の指圧療法の原型となる指圧が浪越徳治郎によって確立されていたとされている。太平洋戦争の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指導によりほとんどの療術が禁止されたが、昭和30年(1955年)8月に「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」のあん摩があん摩(マッサージ、指圧を含む)と変更され、指圧が法律上で初めて認められた。しかしながらその法律の名称があくまで独立した手技として認められていなかったため、「指圧はあんまに非ず」のスローガンの下、日本指圧協会、東京指圧師会などの指圧師団体が立ち上がり、昭和39年(1964年)6月、遂に「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、柔道整復師等に関する法律」と並立名称に変更された(昭和45年(1970年)に柔道整復師法が単独法になったためあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律となる)。

はじめて指圧という名称そのものが使われた年代については多少の異説はあるものの、現在の指圧療法を体系付け確立したのは昭和15年に現在の日本指圧専門学校浪越学園の前身である指圧学院を設立した浪越徳治郎である。浪越徳治郎は、わずか7歳の時に多発性関節リウマチで苦しむ母を救いたい一心から、母指と手掌による押圧中心の手技を独自に会得し、最初は圧迫療法、後に指圧療法と名付けた。その後マリリン・モンローやモハメド・アリ、吉田茂首相をはじめとした歴代の総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。また、彼の設立した日本指圧専門学校は、中国伝来の経絡理論を初めて指圧に取り入れて、経絡指圧を確立した井沢正をはじめ、海外では禅指圧(Zen Shiatsu)と呼ばれて欧米を中心に普及している増永式の増永静人、念仏を取り入れて精神統一を図るタオ指圧(Tao Shiatsu)の遠藤喨及、指圧のツボを経絡経穴に当てはめ解剖学生理学的に解明したツボ指圧(TSUBO SHIATSU)Tsubo Shiatsuの池永清など国の内外で活躍する多くの卒業生を輩出している。
現在、指圧は英語名でもそのままSHIATSUと訳され、日本の独特の手技療法として世界中に普及しつつある。

 指圧の格言●
浪越徳次郎は指圧について語っている。「指圧の心は母心」押せば命の泉湧くと評価している。

 指圧の神髄 ●
指圧の特色は、指と手掌のみを使って施術するところにあり、その神髄は診断即治療といわれている。これは、優れた感覚器である手掌と親指を使って施術することにより、体表のコリの位置や状態からその症状を見極めそのまま治療につながるという意味で、指圧療法独自の妙味とされる。つまり、指圧療法が、現代医学や東洋医学即ち鍼灸や漢方生薬の中国医療と決定的に違うのは、この診断即治療の神髄により事前の診断がなくとも手指のみによる施術によって症状の緩和が期待出来る処にある。

 原則 ●
押圧する際の原則として垂直の原則、持続の原則、集中の原則がある。

垂直の原則
皮膚面に対して垂直に加圧していくことで皮膚面を擦過することによる圧痛をださず、無駄な力の分散を防ぐ。

持続の原則
一定強度に押圧した圧を緩めずにそのまま一定時間持続する。押圧の持続により圧が深部まで届き、圧の持続時間により興奮目的や鎮静目的など目的を変化させることが出来る。

集中の原則
術者が精神を集中させて行う。それにより不注意による事故を防ぐ。また、患者の意識や状態を集中して感じ取ることで適切な治療を行うことが出来る。

 作用効果 ●
指圧することに帰結される効用として、指圧による刺激によって、皮膚機能の活発化、筋組織の柔軟化、体液循環の促進、内分泌の調節、骨格の矯正、消化器系の正常化などの効果が起こるとされている。しかし、これらの効用がどのような作用によって実際に上記であげたような効用を発生するのかは未解明な部分が多い。

 出典●
第22回国会・参議院社会労働委員会会議録・第29号
おやゆび一代 浪越徳治郎著
日本指圧協会ホームページ
カナダ指圧専門学校ホームページ
Shiatsu and its overseas diffusion  カナダ指圧協会ホームページ
指圧とその海外普及(日本語版)  世界指圧療法機構ホームページ
完全図解・指圧療法 浪越徹著
 

D2に、犬ジャーキーを買いに来たのですが・・・・

   あれぇ・・・・

 

 

 

 

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 びっくり、可愛い

 

真っ白いワンコが運転してるような・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ほらねぇ

  すごく可愛いので、思わず

    パチリ・・・

 

 

本当におりこうさん・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

全角度で撮影します・・

  ワンコの、ご主人様は幸せものだな・・・ 

 

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 道の駅 は昨今大人気

 新鮮な野菜・果物・鮮魚などの磁場の産物販売なのです・・

 

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 ここは国道16号線沿線の道の駅

 

トイレタイムに立ち寄ったのです

 

 

 

 

 

 

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 ふるさとステーション

八千代

朝9時30分から

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どんどん、開店前は長い行列

      どんどん・・・お買い物の人が入り口から中に並びます

 

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開店と同時に、すごい人だかり・・・

 

   ほしい野菜もなかなか籠に入れられません・

 

 

 

 

 

 

 

 

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八千代ステーションの前には、

  活き活き家

    鮮魚のお店です

 

 

 

 

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かきが売りなのですが・・・

 

佃煮がおすすめ

あさり・じゃこ佃煮・海老佃煮・貝柱のひも佃煮など

 

 

 

 

 

 試食もあります・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 ★道の駅のウンチク★   フリー百科事典参照

道の駅(みちのえき)は、国土交通省(制度開始時は建設省)により登録された、休憩施設と地域振興施設が一体となった道路施設。道路利用者のための「休憩機能」、道路利用者や地域の人々のための「情報発信機能」、道の駅を核としてその地域の町同士が連携する「地域の連携機能」という3つの機能を併せ持つ。2010年3月11日現在、全国に936箇所ある。

「道の駅」は「鉄道の駅」との対比をなす言葉であるが、もともと駅は街道沿いにある宿場を指す言葉だった。
概要●
従来高速道路には24時間自由に利用できる休憩所であるサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)が整備されているが、一般道の公的な休憩所はほとんど存在せず、民間経営によるレストランや売店を併設したドライブインが休憩所の役目を持っていたものの、実質的にはレストランや売店の利用者に限られており、24時間自由に利用できる物ではなかった。

やがてモータリゼーションの進展で長距離ドライブをすることが増え、高速道路のSA・PAのように、一般道路においても誰もが24時間自由に利用できる休憩施設が求められるようになった。またこれらの施設では、道路利用者に対してその地域の文化・名所・特産物などを活用したサービスを提供することが望まれている。さらに鉄道駅のようにそれぞれの地域の核となり、道路を介した地域連携が促進されるなどの効果も期待される。このような背景の下に「道の駅」の制度が創設された。

省庁の壁を超え、地域振興施設の整備促進を併せて行うことで一般道路における休憩施設をより充実させることが目的となっている。このため自動車専用道路のSA・PAを休憩施設として登録したケース(旭川紋別自動車道「しらたき」、能登有料道路「高松」、播但連絡道路「フレッシュあさご」、山陰自動車道(青谷羽合道路)「はわい」など)であっても、別途一般道からの連絡・利用が可能になっている。

主に地方の幹線道路(国道や主要地方道)から整備が開始され、東京など大都市周辺には道の駅は存在しなかったが、2007年4月、八王子市に東京都初の道の駅(八王子滝山)が開設されたことにより、47都道府県全てに道の駅が設置された。

道の駅の設置間隔については、高速道路のSA・PAのような明確な基準は設けられていないが、おおむね10km程度の間隔があるように計画されている。なお、間隔が10km以下となる申請があった場合は、特徴の違いによる棲み分け、交通量の状況、地域の実情などを総合的に判断して決定する。

 施設●
道の駅は、24時間利用可能な一定数の駐車スペース、トイレ、情報提供施設を備えた施設であることが登録の条件となっている。また、多くの場合、道路や地域の情報を提供する案内人が置かれ、その他、その地域の自主的工夫のなされた施設が設置され、その地域の文化・名所・特産物などを活用したサービス(多くは農産物直売所、売店、レストランなど)が提供されている。なお、わずかだが、冬期は積雪などのため閉鎖される道の駅がある。

道の駅は、道路管理者の国(地方整備局)や都道府県が基本的な施設である駐車場やトイレを整備し、市町村、またはそれに代わり得る公的な団体(ほとんどは第三セクター)が地域側施設を設置する形が取られる。

 登録設置状況●
1993年4月22日に旧建設省と地方自治体の協力で全国で103箇所が登録されたのを皮切りに、以後その登録数は伸び続けている。登録抹消となった事例は道の駅茶処 和束(京都府)のみ。
みなとオアシスと重複 [編集]
港湾・海浜関連の交流施設であるみなとオアシスと重複登録された施設がある。これらには道の駅とみなとオアシスの両方のマークが掲げられている。

あきた港 - 秋田県
みやこ - 岩手県
能登食祭市場 - 石川県
大坂城残石記念公園 - 香川県
うわじま きさいや広場 - 愛媛県
伯方S・Cパーク - 愛媛県
 海の駅と重複●
船舶係留施設である海の駅と重複登録された施設がある。自動車・船舶どちらでも利用することができる。

伊東マリンタウン - 海の駅としての名称は「いとう海の駅」。静岡県
あいおい白龍城 - 兵庫県
小豆島ふるさと村 - 海の駅としての名称は「しょうどしま・ふるさと村海の駅」。香川県

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 千葉市にある、寿司百万石に来店   百萬石(幸町店)

   カウンター席に着きます・・・

     いつもと同じに、注文していたら・・・・

 

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なにやら、きゅうりの桂剥き

 包丁に、爪楊枝を2本さし、きゅうりをころりと回しながら

   桂むきの完成

 

    何本も何本もきゅうりをむきます

 

 

 

 

 

 

 かっぱ巻きとは、キュウリを芯にした海苔巻きで、河童巻き

 河童の好物がキュウリだからといわれているのです

      その他の由来は、河童の総本家「水天宮」の紋章と、

         キュウリの切り口が似ていることから、

              キュウリをカッパと呼んだとの説もあるようです・・・

 

   夏などは、さっぱりして美味しいですねぇ

                                 

IMG_0094.jpg-1.jpgきゅうりを何層にも重ねで

  そこを、細きりにします

 

    いっぺんに、カッパ巻きの具が完成

 

画像が鮮明でなく残念・・・

 

 

 

 

 

★河童のウンチク★   フリー百科事典参照

河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁種にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる[1][2]。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。

外見●
 
妖怪画で知られる鳥山石燕による河童体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部でいつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多い。

両腕は体内で繋がっており片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるという、中国の伝承におけるサル妖怪の特徴である通臂とされている。

肛門が3つある。体臭は生臭い。猿やカワウソのような姿とすることもある。

また大まかに以下の2種類に分けられる。

 亀形態●
体はウロコで覆われ嘴があり、頭には皿を乗せている。頭の皿が割れると死ぬ、または力を失い衰弱する。背中に甲羅があり手足に水かきがある。爬虫類が原型なのか、絵では手の親指がないことが多い。亀のように四本足で歩く絵も見受けられる。キュウリを好む。

絵に書かれることは多いが、キュウリが好物という以外には具体的に何をしたという特徴もない。一般的な河童の想像図に近い反面、目撃談は意外に少ない。

牛や馬の尻や尾にしがみついていわゆる駒引きをするのはこちらの形態のものであると思われる。ただし、昭和の目撃例においてはこの二つと別の爬虫類らしき生物も目撃されており(後述)、こちらと混同された可能性もある。

 類人猿形態 ●
全身が毛に覆われている。口には牙があり、鼻の造形がはっきりしない。頭部にはくぼみがあり、そこに常に水を溜めている。その水が乾くと死ぬ、または衰弱する。手には親指があり、足にはかかとがある。相撲が得意でよく人間の子供と遊ぶ。

存在する河童絵の3割程度は猿型だが、中には背中の甲羅が書かれていないものもある。

春に水辺に下りてきて秋に山へ帰るのもこの種類だと思われ、山童やキジムナーも同一種と推測される。ほぼ日本全土に伝承や目撃例があるが、地域差も多少ある模様。北海道のミンツチが伝承しかないのに対し、九州、五島列島、沖縄などでは近世の目撃が非常に多い。

昭和以降の目撃談では遠目に人間に見えるというのもこの種類と見て間違いない。甲羅を紐で結んでいる絵も多く見受けられるので、甲羅様の道具を蓑のように使っている人間であるとも考えられる。ごくまれに甲羅でなく蓑のような物で背中を覆っている河童の絵もある。

九州では人間の歌や落石、倒木、ダイナマイトの爆破音を真似すると言われる。河童が人間を真似た歌は、節は奇麗だが言葉は不明であったとされている。

 行動●
 
葛飾北斎による河童川や沼の中に住む。ただし例外に地行浜(現在、福岡ドームが建っている辺り)の酒飲み河童は、海に住む。泳ぎが得意。

悪戯好きだが悪さをしない妖怪として伝えられる場合もあるが、多くは水辺を通りかかったり、泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺すなどの悪事を働く。抜いた尻子玉は食べたり竜王に税金として納めたりする。尻子玉とはヒトの肛門内にあると想像された架空の臓器で、これを抜かれるとふぬけになると言われている。この伝承は溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子があたかも玉が抜けたように見えたことに由来するようである(尻子玉は胃や腸などの内臓を意味するという説もある)。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様の溺死者の姿があたかも内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる[3]。

相撲が大好きでよく子供を相撲に誘う。相撲に負けた子供は尻子玉を抜かれる。河童は大人よりも力が強いが、仏前に供えた飯を食べた後に闘えば子供でも負けないと言われている。

好物はキュウリ、魚、果物。これにちなみ、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる[4]。

義理堅く、魚や薬の製法を恩返しとして提供する民話も多く存在する。

鉄、鹿の角、猿を嫌う。潜水時間は河童は12時間だが猿は24時間なので闘うと猿に負けるという民話もある。シダの葉で頭をなでると人間に化けることができるとされる。

愛知県北設楽郡三輪村大字川合(現・南設楽郡鳳来町)では「火を貸せ」(ひをかせ)という河童の怪異が知られている。ある夜、小石久右衛門という男が大字長丘と川合の間にある亀淵近くを通ったとき、後ろから少女が「久右衛門、火を貸せ」と呼び止めた。久右衛門は以前からこの付近に河童が出ると聞いていたので、いきなり大ぎせるで女の頭を打ちつけた。すると少女の姿は消え、同時に久右衛門は体がしびれて気を失ってしまった。やがて朝になってから目が覚め、どうにか家に帰りついた。人々は、亀淵の河童の仕業であろうとうわさしたという[5]。

 起源 ●
 
歌川国芳画、多嘉木虎之助。田村川で川虎(河童)を生け捕る図河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが(河伯信仰を参照)、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。九州北部では河童の神を兵主部羅神ということから、熊本県のヒョウスベもその一派であると考えられる。

河神[6]が秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談があり、関連性が興味深い。

河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている。

頭の皿については、民俗学者の折口信夫が『河童の話』で興味深い指摘をしている[7]。皿などは食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴である。これに関しては椀貸し淵の伝承が興味深い。膳椀何人前と書いた紙を塚・洞・淵などに投げ込んでおくと翌日には木具が揃えてあった。だがある時借りた数を返さなかった日から貸してくれなくなった、というようなものである。貸し主ははっきりしないのが多く、竜宮・河童というのもあるが狐という所もある。ただ類似の説話に川上から箸や椀が流れてきたという隠れ里にまつわる話やそれに関する迷い家(マヨヒガ)のケセネギツ(米櫃)[8]、淵に薪などを投げ込むと恩返しで富貴になる話などがあり、これらのことからは椀類が生命力から富の象徴になったこと、椀が水と縁の浅からぬ物であることが分かる。

また折口は壱岐の殿川屋敷で女が井戸に飛び込み、底に椀が沈んでいるという話も紹介した。これについては古くから水の神に捧げる嫁或いは生け贄や、水に関わる土木工事での女の人柱が多く伝承されていることを挙げ、平戸に伝わる女河童の例で、ある侍屋敷に下女がいて皿を一枚落として割ったので主人が刀で斬りつけると海に逃げ、その姿を見れば河童であったという話を引いている。

『西遊記』に登場する沙悟浄は、日本ではしばしば河童に似た姿で描かれる。詳細は沙悟浄#日本の沙悟浄を参照。

 現在の河童●
 
浅草かっぱ橋の河童像現在の日本でも極たまに目撃談があり、ツチノコと並んで日本を代表する未確認生物とも言える。

また、その類の生物としては珍しく、愛くるしい姿で描かれることが多い。水辺に住んでいると伝えられるためか、河川や湖沼の水質汚染防止及び環境保護のマスコットキャラクターにされることが多い。

 呼び名 ●
各地方毎に様々な名で呼ばれている。

「河童」の訛りとしてガワッパ、ガワワッパ、ガラッパ(熊本県八代地方、鹿児島県川薩地方)、河太郎の訛りとしてゲータロ、ガタロウ、ガータロー(長崎県五島列島など)[9]の他、水蛇の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメなどがある。

また、これらとは全く別系統のものとして、高知のシバテン(芝天狗の略)、愛媛県宇和地方でのエンコ[10]、岐阜県大野郡や和歌山県でのガオロ[11]、岡山県(主として津山市)でのゴンゴ、対馬(長崎県対馬市)などでのカワコ[12]、大分県玖珠郡でのカワノモノ[9]、熊本県飽託郡(現・熊本市)でのタビノヒト[13]、鹿児島県トカラ列島のガウルがある[14]。英語圏内ではウォーターインプの名で呼ばれる。

 各地の伝承 ●
 九州の河童伝説 ●
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武士たちは散り散りになって九州に逃れた後、源氏の追っ手に次々と打たれ死んでいったのだが、その打ち滅ぼされた平家の落人の霊魂は河童となり、九州各地で田畑を荒らし、人民牛馬を川に引きずり込むなどの悪戯を働いたと言われる。

豊前
大分県の中津市耶馬溪町に鎮座する雲八幡宮では、古くから「河童楽」という河童封じの神事(通称:河童まつり)が行われている。それは河童を中央に囲み、楽を奏し、唐団扇(とううちわ)と言われる大きな団扇で仰ぐことにより荒ぶる河童の霊魂を鎮めるというもので、その後は河童の神通力によって村の平和は守られたと言い伝えられている。筑後国に伝授されたものと河童楽由来記は伝えるがいつ頃から始まったのか定かでなく、筑後にもその伝承が残っていない。現在、大分県無形民俗文化財として指定されており、少なくとも江戸中期ごろかそれ以前より毎年夏の例大祭に奉納されている。

筑後
福岡県の筑後川付近には「河童と地元民とのもめごと」や「河童族同士の戦争」の伝説や「河童にちなんだ地名」など比較的年代が明確ではっきりした記録が数多く残っており、少なくともその当時「河童」と呼ばれたものが川辺付近に多く住んでいたと思われる。

特徴は全身が毛に覆われている「類人猿形態」。筑後地方の河童は100匹以上の集団生活を営んでいたらしく、川の上流から海の傍まで幾つかの集団に分かれて生活していたらしい。さらには人語を理解し、人間との複雑な契約も行っていたことから、河童は少数民族ではなかったかとも思われる。昭和初期まで河童を見た人が比較的多くいるのでこの時期に絶滅したのかも知れない。

「水に入る前にはタケノコを食べる」「水に入る前には仏前飯を食べる」といった河童除けの風習は久留米市の水天宮付近が起源とされる。毎年8月には、水の祭典という祭りが行われる。これは、元々河童をあがめるために始まった祭りである。

久留米市民図書館では、河童をモチーフとした置物があり、久留米市ではカッピースタンプというものがあり買い物をして集めるものである。

 牛久沼と小川芋銭 ●
茨城県の牛久沼には、「悪さをする河童を捕まえ松の木にくくりつけたが、改心したので逃がしてやると、河童が草刈りをしてくれた」、「河童の手を拾って河童に返したところ、河童が万能の膏薬の作り方を教えてくれた」など、河童にまつわる伝説が多く残っている。

生涯のほとんどを牛久沼のほとりで暮らした日本画家の小川芋銭は、河童を好み多数の河童の絵を残したことから『河童の芋銭』として知られている。晩年には画集『河童百図(1938年)』を出版している。

 実在性●]
 河童のミイラ●
現在河童のミイラや河童の骨などと呼ばれるものは、多くは江戸時代のミイラ造形師が他の動物の部品を組み合わせて作った物である。好んで用いられたのはエイと猿、また、フクロウの頭部を使ったものもある。また河童の手首のミイラと呼ばれるもののほとんどはニホンカワウソのものである。

福岡県の北野天満宮には「河伯(かはく)の手」と呼ばれる河童の手のミイラがあり、901年に菅原道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる[15][16]。

また、佐賀県伊万里市山代町の松浦一酒造には河童全身のミイラが祀られており、地元では「河童の酒蔵」として有名である。[17]

 未確認動物としての河童●
河童は未確認動物であるという考え方もある。この視点で見る河童には人間や猿と酷似する種類(哺乳類)と巨大な蛙のような種類(両生類或いは爬虫類)などが存在するらしく、どの種類も背丈は30センチメートルから150センチメートル程度であり、成人した人間を超えることはない。河童の伝承の数だけ全く異なる未知の水棲生物が存在していた可能性も捨てきれない(またそれらが既に絶滅寸前のニホンカワウソと同じ環境に生息している事実は河童もまた絶滅種もしくは絶滅寸前なのかもしれない)。

また爬虫類形態は昭和頃の目撃例では皿や甲羅がない個体が多く、宇宙人の典型的外形となったグレイと酷似するため、目撃者がグレイと誤認したのではないかと見られる事例が「新耳袋」に掲載されている。河童はアメリカのドーバーデーモンや蛙男、チュパカブラ、またアクア説の渚原人とも特徴が類似している。

なお、人間の尻小玉を抜いたり、牛馬を狂わせたりするといわれるような行動についてはUMAでいう河童では分かっていない。茨城県牛久市では河童の目撃情報があり、警察が駆けつけると水銀を含んだ河童の足跡と見られるものが残っていた。江戸時代の書記などにも目撃談が記されている。

 河童にまつわる言葉●
「河童の川流れ」
河童は泳ぎが得意であることから、物事に長けている人でも失敗することがあるという意。
「屁の河童」
河童はいつも水の中にいるため、屁をしてもあまり勢いがないことから、「取るに足りないこと」を「河童の屁」、後に語順が変わった。「木っ端の火」から来たという説もある。
「陸(おか)へ上がった河童」
河童は水中では能力を十分発揮できるが、陸に上がると力がなくなるとされるところから、力のある者が環境が一変するとまったく無力になってしまうことのたとえ。

 

 

 雨の日の横浜伊勢佐木町(イセザキチョウ)

  青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」のヒット使徒時代は本当ににぎやかな街並みだった

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 人・人・人・・・・

  あふれんばかりの人ばかり 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1150541.jpg今は本当に寂しい町になってしまった・・

 

横浜のみなとみらい地区に、人が流れ・・・

  横浜の様子も変わります・・・

 

 

 

 

 

 

 

★伊勢佐木町のウンチク★   フリー百科事典

伊勢佐木町(いせざきちょう)は、神奈川県横浜市中区にある地名および商店街である。

地名としては伊勢佐木町字1丁目~7丁目からなり、伊勢佐木町通りに沿って北東-南西方向に約1.2km続く。北東端から地上は吉田橋を抜けると馬車道につながり、地下はマリナード地下街があり、馬車道や関内駅につながっている。南西端は南区に接する。現在1丁目と2丁目は「イセザキモール」(全面歩行者天国)、3丁目~7丁目は「伊勢佐木町商店街」と呼ばれる。

 沿革 ●
現在の読みは「いせざきちょう」であるが、当初は「いせさぎちょう」と呼ばれた。 命名は諸説あり、当地の道路建設費用を寄付した三名(伊勢屋中川次郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎)にちなむとも、伊勢佐木町起立前に興行場を開場した伊勢文蔵・佐々木次年の両名にちなむとも言われている。

もとは入江を埋めた吉田新田の北一つ目沼地。 沼地は寛文11年(1671年)までには埋め立てられ、耕地となっていた。 明治2年(1869年)には当地付近に港崎遊郭が移転し、吉原町が起立、明治5年(1872年)にはその遊郭も高島町に再移転し、区画を整理して明治7年(1874年)5月20日伊勢佐木町が起立した。 大区小区制では第1大区4小区に属し、明治11年(1878年)横浜区に編入され、明治22年(1889年)横浜市制施行で同市の1町となる。 昭和3年(1928年)松ヶ枝町、賑町、長島町の全域と長者町、久方町、末吉町の各一部を編入して南吉田橋際まで町域が拡大した。

 繁華街の変遷 ●
明治時代から商店などが集中したため、現在でも明治創業の店舗が残っている。

明治6年(1873年)に興行場が開かれ、大相撲も催される興行街となる。 明治15年(1882年)に遊郭が高島町から真金町へ再々移転すると、関内から遊郭への通り道となり、伊勢佐木町通りを中心に繁華街へ発展。 明治44年(1911年)にはドイツ人貿易商・ヴェルダーマンが日本最初の洋画封切館であるオデヲン座を開館、大正初期までには東京・浅草や大阪・千日前と並ぶ大繁華街となり、「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれた。 関東大震災で大被害を受けたが復興は早く、昭和に入って尚も大いに栄えるが、太平洋戦争で被災、更に戦後は占領軍によって接収される。 昭和26年(1951年)返還が順次開始され、復興が本格化したのは昭和30年代に入ってからである。

昭和40年代以降、かつて「裏口」と呼ばれ長い間油槽所跡地の砂利置き場であった横浜駅西口が大規模に開発されると地位は低下し、以降横浜駅周辺や同じ老舗である元町商店街、更には新興のみなとみらい21等に客を奪われている。 しかし、日本最初の歩行者天国の実施、自動給水器の設置やカラータイル舗装、ベンチの設置、ウェルカムゲートのリニューアル[1]など、横浜の代表的商店街の地位を保つべく懸命の集客努力を重ねてきた。

目抜き施設でもあった横濱カレーミュージアムや横浜松坂屋が閉店した2008年頃から韓国籍の売春女性が数多く見られる様になる。 中でも2009年5月には韓国人の"売春婦"が30人検挙される等、アジア系の"遠征売春"が急増し、黄金町と並んで横浜市内の問題地域になっている。 浮浪者や客引きも多いため治安の悪さが指摘されており、路上や店でのトラブルも少なくない。 隣接する福富町や曙町は風俗街としても有名である。

因みに、ミュージシャンのゆずはアマチュア時代にストリートライブをよく行っていた。

 

 

 

 

 2010.6.6 日曜日夕方・・・

  横浜市磯子区JR洋光台駅前のみどりの窓口に行きました・・・

 

 

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 駅前は、小学生のクラブの子供が数人いました

みどりの窓口で用事を済ませて、

  駅前ロータリーにきたら・・・

    大変なことになってます・・・

 

 

 

 

 

 

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 人ごみで歩けません・・・

何やら・・・

  その人ごみの中心にアイドル?らしき動きがあり

 

    ジーーーーと遠目で見ていたら・・・・

 

       発見

 

          可愛く・キュートな対象物です

 

  

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羊くん  タキシード姿でりりしい・・のです  

     たしかに、アイドル  

    ブーツ姿も愛らしい・・・

 

「ケータイはあなたの執事です・・・」のキャッチフレーズ 

「コンシェル」。

    「しつじのひつじくん」が登場 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1組の中学生男子の行動が印象的・・・

  離れて・・見てたのです・・

 

     少しずつ・・・一歩一歩・・歩み寄り

 

      あぁあぁ・・・

 

 

 

 

 

 

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 握手してます・・・

  中学生男子でも握手するんだぁ

    男の子が可愛い・・・

  

かなり、ご満足な笑顔です・・・

 

 

 

 

 

  

 

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ひつじ君は、ドコモのお姉さんに連れられて・・・

  ドコモショップにご帰宅です・・・

 

その後姿を・・

  ジーーーと、いつまでも見送ってました・・

 

   男の子も、着ぐるみ好きなんだね・・ぇ

 

 

 

 

 

 

★着ぐるみのウンチク★  フリー百科事典 参照

着ぐるみ(きぐるみ)とは、人体着用ぬいぐるみの略で、人間が着用可能な大型のぬいぐるみを指す。友好親善イベントや遊園地のエンターテイメントショー、テレビ番組などで用いられる特殊衣類で、中に人間が入り、全身を覆い姿を変える演出で使用される。

 

概要 ●
着ぐるみとは人間の全身を覆う、等身大のぬいぐるみの総称で、怪獣など架空の生物や人間や、擬人化した動物を表現する方法として用いられる。ミッキーマウスやハローキティなどのマスコットキャラクター、擬人化した動物、怪獣、ロボットなどの造形が一般的である。

歌舞伎などの古典演劇、映画での特殊撮影技術の一つとして、または幼児向け子供番組の登場人物、特殊な演劇的表現として舞台演劇で用いられる。一般的には遊園地やテーマパーク、商品キャンペーンなどで幼児を相手にしたり、風船などを配布する作業など顧客サービスに従事している。

遊園地などでは専門のスーツアクターが入ることが多く、企業・団体のイベントでものスーツアクターを依頼することが多いが、経費を節減するため着ぐるみだけをレンタルし、主催企業・団体の職員やアルバイトが中に入る場合もある。その場合は、スーツアクターのような派手で大きなリアクションは期待出来ない場合がある(日常的に着ぐるみでサービスを行っている場合、逆に事実上の専門スタッフ化している社員などもごく一部ながら存在する)。また、自社オリジナルの着ぐるみを製作し、PRイベントに活用する企業も多い。

特殊な例としてはフジテレビ系子供番組「ポンキッキシリーズ」のレギュラーキャラクターであるガチャピンが有名である。番組内において、ガチャピンは様々なスポーツ等に挑戦している。よって中に入る人についてもそれぞれ各分野におけるエキスパートに依頼される事になる。日本代表クラスのスキルを持つ各種スポーツ選手、カヌー選手、ハンググライダーや体操選手の他、さらには宇宙飛行の訓練を積んだ専門家に至るまで、ガチャピンの中には他の着ぐるみと比較にならないほどたくさんの人が入れ替わりで入っていると推察される。しかしスタッフ側の見解としては「あくまでも『ガチャピン』は『ガチャピン』そのもの(中に人は入っていない)」と設定している。

全身を覆う着ぐるみはその造形上、内部は体温がこもって蒸れやすいうえに視界が悪く(前方か足下のいずれかしか見えないのが普通で、音も聞こえ難い)、汗をかいても頻繁には洗えないと言った短所がある。中に入ると思うように動けなくなるため通常軽装で入る。但し最低限Tシャツを1枚着ることが一種のマナーとなっている。通信用の無線やイヤホン、マイクなどが入っているものもある。また、最近では空気で膨らませた「エア着ぐるみ」というものが使われ始めている。これは内部に送風機とバッテリーを装着し、空気を外部から供給しながら膨らみつづけて形状を維持している仕組みである。(いわゆる風船とは違うものである。)この仕様の着ぐるみは丸っこく膨らんだキャラクターの形状を表現するのに向いていて、ゆるキャラの着ぐるみを作る際によく用いられる。

着用している人間の顔が見えるように造られている着ぐるみは、お笑い芸人やアイドルがコント・テレビCMなどで着用することが多い。またたらこキユーピーやご当地キティなどキャラクターの顔が見える着ぐるみのキャラクターグッズが近年流行している。なお、テレビ業界では顔の出ている着ぐるみのことを「かぶりもの」と呼ぶことが多く、顔の出ていない着ぐるみのことを「ぬいぐるみ」と呼んで区別している。

 「縫いぐるみ」か? 「着ぐるみ」か? ●
現在多用されている「着ぐるみ」という言葉は1980年代後半に生まれた比較的新しい言葉であり、現場サイドでは「縫いぐるみ」と呼ばれていることが多い。

語源としては、「特撮マニアが『着ぐるみ』という言葉を使い始めた」あるいは「とんねるずがテレビ番組で盛んに口にして広まった」など、色々な説が存在する。桂米朝は数年前、ラジオ番組で古い言葉をテーマにしたトークで、「この着ぐるみという言葉を最近よく耳にするが、以前は無かった言葉で、非常に違和感を覚える」と自ら話題を振ってコメントしていた。

こういった「全身被り物」キャラクターは、上述したように歌舞伎や狂言に祖を求めることもできるが、「特撮映画」においては、特撮映画の金字塔である「ゴジラ」シリーズ(東宝)が、主役怪獣の表現に縫いぐるみを多用していたため、「日本における特撮怪獣=縫いぐるみ」という図式が出来上がったと言われる。

第一作の「ゴジラ」(1954年(昭和29年))において特撮監督円谷英二は当初、戦前に製作された「キング・コング」(1933年(昭和8年))に倣って人形アニメーション(ストップモーション・アニメーション)による撮影を主張したのであるが、予算や撮影日数の限界から断念せざるを得ず、「縫いぐるみ」の手法を採ったのである。

こうして海外の特撮映画が「キングコング」以後も人形アニメ表現で発展したのとは対照的に、日本では「ゴジラ」以後、他社による怪獣映画(ガメラシリーズなど)においてもこれは踏襲され、このフォーマットは、後に続く「ウルトラシリーズ」や、「仮面ライダーシリーズ」、「スーパー戦隊シリーズ」など、テレビ番組においても引き継がれている。

この手法の表現であるが、「ゴジラ」の母体である東宝など特撮映画・番組の現場スタッフの間では、川北紘一、有川貞昌、中島春雄、村瀬継蔵、高山良策、古谷敏をはじめ、「縫いぐるみ」呼称をとる関係者は多い。

特撮ライターのヤマダマサミは「大ウルトラマン図鑑」(ホビージャパン刊)で、造形者から見た造形物としての「縫いぐるみ」と、内部演技者から見た造形物としての「着ぐるみ」としての呼称の発祥の違いを述べ、現場用語として現役である「縫いぐるみ」呼称の排除、「着ぐるみ」呼称への統一に異を唱えている。

 着ぐるみイベント ●
日本ではアニメなどのキャラクターによる着ぐるみに扮した者達によって行われる着ぐるみ寸劇イベントが存在する。着ぐるみ愛好者達もイベントを画像に収めようと遠路遥々参加するが、基本的に対象となる観客は幼児、小学生以下の子供であり、着ぐるみ愛好者達の間では暗黙の了解として、イベントにおける全ての優先権は子供にある、と考えられている。そのため、あるイベントでごく一部の着ぐるみ愛好者達が子供達を押しのけ、着ぐるみと強引に握手等をした事が問題になった。

また、着ぐるみイベントの司会者が着ぐるみ愛好者の者達を「大きいお友達」と呼んだ事から、「小さいお友達(主に幼児、子供)」「大きいお友達(主に愛好者を指す)」と観客を明確に二分する表現が出来た。

 着ぐるみによる演劇 ●
着ぐるみ表現による児童向け演劇を、最初に商業的に成功させた劇団としては、日本における影絵の第一人者である藤城清治主宰の木馬座があり、そのキャラクターケロヨンとともに有名である。既に解散したとはいえ、木馬座によるぬいぐるみ人形劇(着ぐるみ劇)の表現は、現在も活動中の着ぐるみ劇団に多くの影響を与えている。

着ぐるみによるイベントについては、特に舞台で演じられる演劇形式ものをマスクプレイ劇として区別する場合がある。マスクプレイの童話劇を観覧するイベントは、幼稚園など幼児教育の場においては情操教育の一環として現在では定番の一つになっている。

このマスクプレイによる童話劇を専門職として行っている代表的な存在としては劇団飛行船が挙げられる。マスクプレイミュージカルの専門劇団として40年を超える歴史を持つ老舗でもあり、人気アニメの舞台化のほか海外公演も行うなど、日本の着ぐるみを用いた芸能演劇の歴史を語る上では避けて通れない存在でもある。

他方、地域のボランティアなどで愛好者を中心とした小劇団が組まれ、童話などのマスクプレイ劇の活動をしている者も少なくない。

 着ぐるみを演じる人間からの位置付け ●
 
着ぐるみの頭部分のみを脱いで出てきた中の人着ぐるみに対する愛情を、異常性的指向やコンプレックス感情として片付けられるのを、愛好家は嫌う場合が多く、また現実問題として着ぐるみ愛好家の間でも着ぐるみに対しての位置付けは人によって違う。呼び方に関すると、着ぐるみを演じる人を「着ぐるまー」「内臓」「中の人」「Doller(ドーラー)」と呼んだりする。いずれも一般的な表現ではないが、古くからあった呼び名は「内臓」と「Doller」である。

「着ぐるまー」と言う呼称は、「着ぐるみ」をする事の意味の動詞「着ぐるむ(m)」に「er」を付けて「着ぐるまー(mer)」になった物である。「内臓」と言う呼称は、「外皮(着ぐるみの部分を皮と考える)」を着ている「中身(内臓)」と言う感覚である。これは、着ぐるみと中身がほぼ一体となった感覚である。「Doller」と言う呼称は、その名前の通り「Doll(人形)」を演じる人(er)である。

また、「内臓」と「着ぐるまー(Doller)」には二種類の願望が存在し、「動かない人形への願望」と「動く人形への願望」がある。「内臓」と「着ぐるまー(Doller)」を単純に比較する事は出来ないが、「内臓」と言う表現は現実の自分、生活の自分と着ぐるみが融合しており、「着ぐるまー」や「Doller」は「内臓」と比べ純粋な愛好心から来る高尚な表現となっている。

 一般的な着ぐるみ(主に動物型) ●
一般に想起が容易な着ぐるみ、特に動物の形をしたものは「Fursuit」(ファースーツ)と称され、主に海外(アメリカやヨーロッパ)での愛好者、ケモナーが多い。特にアメリカでは人間型の着ぐるみを「Kigurumi」と称し、Fursuitと使い分ける傾向にある。Fur(毛皮)という言葉が意味するとおり、動物を模したもこもこした感触の起毛処理が全身にかけて施されているのが特徴で、人間型の着ぐるみと方向性を異にする要素の一つである。アメリカではFursuitなどの動物型着ぐるみを主題としたコンベンションが数多く開催されており、大規模なコミュニティが存在している。その方向性も擬人化がある程度進んだもの(体型が人間に似ている)、児童向けにデフォルメされたものなど様々である。

 アニメスタイルの着ぐるみ(主に人型)●
 
アニメスタイルの着ぐるみの例。面の造形がアニメのキャラクターのようになっている着ぐるみの事を言う。基本的に目が大きく、鼻が小さく、口はキャラクターによって大きかったり小さかったりする。顔面の各パーツはデフォルメされており、写実的ではない。デフォルメは心理的な感覚(可愛い、美しい等)から来る誇張表現である。このような着ぐるみに入る人を先に述べている通り、「ドーラー(Doller)」または「着ぐるまー」という。あるいは、「着ぐる民」と呼称する場合もある。

オリジナルの着ぐるみ
オリジナルの着ぐるみとは、主に面の造詣が既存のキャラクターの造詣の真似や複製ではなく、着ぐるみ制作者もしくは発注者の自由な発想、意思によって作られた創造性の高い面の事を言う。

オリジナルの着ぐるみを着た者に求められるのは、その自由度と創造性の高さから、演技によって自己のキャラクターを作り上げる事である。また、基本のそのキャラクター及び、着ぐるみを着た者による演技の美しさなどが人々からの評価対象になる。

既存のキャラクター
既存のキャラクターの着ぐるみとは、主に面の造詣が既存のキャラクターの造詣の忠実なる再現であり、着ぐるみ制作者、または発注者の強い再現性実現への意志によって作られた忠実製の高い面の事を言う。

漫画、アニメなど既存のキャラクターを元にした着ぐるみは、自由な演技は出来ない。雰囲気、仕草、性格の忠実な再現、また時に体型補正まで求められる場合がある。故に、既存のキャラクターへの強い愛と、それに関する深い知識が無いと演じる事は出来ない。それどころかキャラクターの雰囲気を壊すと、そのキャラクターのファンから忌み嫌われる事となる。既存のキャラクターの着ぐるみを演じる者にとっては、自分が憧れのキャラクター自身になる事による究極的な満足感と快楽を得る事が出来る。

 写実的な着ぐるみ(主に人型)●
面の造詣が写実的であり、目や鼻、口なども現実に存在するかのような人間の顔の作りになっている物を言う。これはリアルマスクと呼ばれ、日本よりも海外で多く見かける。また写実的な面の多くは、オリジナル作品であり、現実に存在する人間の顔を模写すると言う事は少ない。

写実的な面を被る着ぐるみをする者は、現実に人間が着るような私服、事務服、制服を着る傾向があり、現実に存在する別人へ自分が変装している、変身している感覚に自己の内側に隠れた別の自分の発見に対する喜び、幸福、また隠れた別の自分を外側に出す事による快楽、開放感を得る。

 顔の出ている着ぐるみ●
顔の出ている着ぐるみとは、前述した通りに芸能人がテレビ番組やテレビCMで着るときに顔を出す穴が開いている物を指す。動物やアニメのキャラクターを模した着ぐるみのパジャマが近年流行し、キャラクターとなりきり・一体化する感覚がある。2000年前後に、この着ぐるみパジャマ姿で外出する事が一部で流行となり着ぐるみんと呼ばれ注目された事がある。これらは「かぶりもの」とも呼ばれ、いわゆる全身着ぐるみ(ぬいぐるみ)とは全く別物と見解する者も存在する。
 

 

  

ガスト復活メニュー「ハミ出るビーフステーキ」 

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 早速注文

 

レアーを頼んでみたら・・・

 

きっとだめだよね・・

 

 

 

 この間・・おなかがすいてるので一気に食べてしまった・・・

  写真撮り忘れ・・・・

 

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 けっこう

ちゃんと、レアーになってるよ・・

侮るな・・ガストかなぁ

 

 

 

 

                                    

  

P1150528.jpg999円で、焼き方まで申し訳ないのですが・・

 

この、ガストはちゃんと応えてくれました

 

 

 

 

 

 

★ビーフステーキのウンチク★   フリー百科事典

ビーフステーキ(beef steak)とは適当な厚さに切った牛肉をフライパンや熱した鉄板の上で、あるいは炭火で焼いた肉料理の総称である。ステーキの一種。

語源となったのはフランス語のbifteckで、これをもとに日本では長らくビフテキと呼ばれた。古くは「ビステキ」とも略され、夏目漱石や和辻哲郎の作品にも記されている。今日では単にステーキと呼ばれることも多い。

 

調理法★
調理法(肉の切り方、ソースなど)によっても名称が異なるが、基本的なステーキの焼き方については以下を参照。

1.筋をとる
2.塩、コショウで下味をつける。この際塩を先に振ると余計に水分が抜けるため、それを防ぐためコショウから先に振っておく。さらに焼く15分程度前にコショウを振っておくとより臭みが抜ける。
3.油(牛脂など)をフライパンに敷き、強火で焼く。焼き加減は好みによるが、普通は肉汁が出たぐらいでひっくり返すと良い。
4.皿に盛るなどしてフライパンから上げる。このとき肉が硬くなっているので少々肉を休ませる。
シャリアピン・ステーキ - 摩り下ろしたタマネギに漬け込んで肉を柔らかくしたマリネステーキの一種。
和風ステーキ - 醤油やポン酢、大根おろし、ワサビなどが使われる。
生姜焼きステーキ - 和風ステーキの一種だが、特にそう断ることもなくグリルなどでも供される。生姜と醤油のタレで焼き上げる。
サイコロステーキ - 肉をサイコロ状に切って焼いたもの。箸でも簡単に食べられる。

 

★焼き方 もイロイロのウンチク★
●(ロー)      完全に生の状態
●ブルー      限りなく生に近い状態
●ブルーレア   ブルーとレアの中間
●レア        表面のみを焼いた「鰹のタタキ」のような状態。但し、「タタキ」の内部が刺身の「炙り」同様「火の通らない、完全な生」であるのに対し、レアステーキの生はあくまでも余熱などで火を通している。
●ミディアムレア   レアとミディアムの中間
●ミディアム      切るとほぼ全体に色が変わっているが肉汁は生に近い状態
●ミディアムウェル   ミディアムとウェルの中間
●ウェル         よく焼いた状態
●ウェルダン      ウェルよりもよく焼いた状態
●ヴェリー・ウェルダン  完全に中まで焼いた状態、肉汁が全く外に出ない

日本では、レア、ミディアム、ウェルダンの3分類か、これにミディアムレアを加えた4分類の指定が可能なことが多い(ウェルダンは、英語のwell-doneつまり"充分に行なった"から来ている。よくウェルダムという人がいるが、これは誤り)。

本来の味付けは塩のみのシンプルなものであったが、後にスパイス文化が世界的に広まると、コショウやナツメグ等の香辛料が加わり、現代ではステーキ・ソースなどもあるが、和風ステーキと銘打ったものは大根おろしとポン酢醤油で味付けをする場合がある。紫蘇、おろしニンニクやおろしショウガを使っても美味しい。また、ブランデー、ウイスキー、ワイン等でフランベするとより香りが良くなり風味も増す。焼いた素材の上にレモンの輪切りやバターを添えることもある。

付け合わせにジャガイモ・ニンジン・ブロッコリー・コーンなどの温野菜が盛りつけられることが多い。通常はパンかライスを添えるが、特に添えずに食べる場合もある。

 

 

 

 

 東京の首都高速道路走行中

 

P1150542.jpg

 

 前方に発見

空に大きな飛行船・・・

 

 

 

 

 

乗車と金額を検索してたら 下記に記事を発見・・・

「 今年(2010年)の4月から、東京や横浜を飛行船で遊覧できるようになりました! 

  ジャンボジェットよりも大きい「ツェッペリンNT」に乗って、地上300~600mあたりを低空飛行。 

         乗車料金は40分で6万3000円からと高めです...。」

        (Excite)(情報元:everything is goneさん)関連:日本飛行船公式サイト抜粋                                 

                               

詳しく調べて見たいのですが、「日本飛行船公式サイト」がwebしません

   民主党の事業仕分けに入ってしまったのかな?

     基本的に日本飛行船の組織を良く知らないので・・・どうしたか心配してます・・

P1150543.jpg

 

 

乗車料金は40分で6万3000円

  乗ってみたいですか?

 

鳥目線になれるからね・・

 

 

 

★飛行船のウンチク★   フリー百科事典

飛行船(ひこうせん、英: airship)とは、空気より比重の小さい気体をつめた気嚢によって機体を浮揚させ、これに推進用の動力をつけて操縦可能にした航空機である。

概要 ●
機体の大部分を占めるガス袋(気嚢)には水素もしくはヘリウムがつめられている。通常、ガス袋は空気抵抗を低減させるため細長い形状をしており、乗務員や旅客を乗せるゴンドラや、エンジンおよびプロペラなどの推進装置が外部に取り付けられている。また、機体後部には尾翼があり、方向安定を得るとともに、取り付けられた舵面を動かして機首の方向を変えることができる。

20世紀前半には、大西洋横断航路などに就航していたが、1937年に発生した「ヒンデンブルク号」の墜落事故を契機に水素利用の飛行船の信頼性は失墜し、航空輸送の担い手としての役割を終えた。その後、広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用した飛行船が小規模に使われている。

以上は有人飛行船であるが、最近ではラジコン飛行船の用途分野も広がり、中でも大規模プロジェクトである、地上局・人工衛星と並ぶ第三の情報通信網としての「成層圏プラットフォーム」飛行船が注目されている。地上20kmの成層圏に全長300m以上の大型無人飛行船を停留させ、無線通信の基地局として用いるというものである。基地局として必要な電力は飛行船上面に取り付けられた太陽電池でまかなう。地上局に比べ広範囲をカバーでき、人工衛星に比べ遅延時間が短く運用コストが低いという利点がある。「成層圏プラットフォーム」実用化に向けた取り組みは世界各国でなされており、日本では政府による「ミレニアムプロジェクト」の一つとして、成層圏滞空飛行船を利用した通信・放送サービスが計画された。2004年には、大規模に税金が投入され、北海道の大樹町多目的航空公園で、全長60mの実験機(ラジコンの軟式飛行船)の飛行試験が行われた。しかしながら、参加した専門家が少ない上に、多くのプロジェクト同様資金不足に陥り中止。現在、この時に使われた格納庫と運用場が残されている。

これとは別に、違法電波の発信源を特定する活動に飛行船を活用する実験が現在首都圏で行われており、実用化に向けて準備が進められている。

近年では、構造上不可能とされていた完全な球体型の飛行船も開発され、「ボール・オブ・ドリーム」という名で知られている。


歴史 ●
航空に関する年表も参照。

1852年9月23日 - フランスのアンリ・ジファールによって蒸気機関をつけた飛行船の試験飛行が成功。出力3馬力、時速8km。
1884年、シャルル・ルナールとA・C・クレプスによる初の電動飛行。塩化クロム電池と9馬力電動モーターを使い、7.5kmを23分間で飛んだ。
1897年にはユダヤ系オーストリア人のダーフィット・シュヴァルツによって、硬式飛行船が試作された。ツェッペリンはシュヴァルツの家族から特許を購入する。
 
ツェッペリンの飛行船 (1900)1891年のドイツでは、ツェッペリン伯爵が退役後に独力で硬式飛行船の開発に乗り出し、1900年には飛行に成功。1909年にはドイツ海軍に飛行船を納入し、1911年にはドイツ国内民間航路(ヴィルヘルムスハーフェン - ベルリン)を開設した。ツェッペリン伯爵の成功によりツェッペリンは飛行船の代名詞となった。
1901年フランスで硬式飛行船ルボーディⅠ号が完成。初の操縦可能な飛行船として成功を収めて軍から高く実用性を買われ、実質的な飛行船実用化の確立に至った。
1911年9月20日に、山田猪三郎が開発した山田式飛行船が東京上空一周飛行に成功した。
第一次世界大戦においては、ドイツ軍により軍用飛行船が用いられ、ロンドン空襲などを行った。
第一次大戦後、ツェッペリン伯爵の跡を継いだエッケナーは、ツェッペリン飛行船を使った長距離・国際的な民間航路の開設に乗り出した。
1924年に大陸縦断航路(ストックホルム - ベルリン - ローマ - カイロ - ケープタウン)を開設。
1925年に太平洋横断航路(上海 - 霞ヶ浦 - サンフランシスコ)開設
1926年にノルウェーの探検家アムンセンがイタリア製の飛行船ノルゲ号で北極を横断。
1929年にはツェッペリン伯爵号が世界一周飛行を行い、当時の飛行機の限界をはるかに超える長距離・長時間の飛行性能を見せ付けた。ドイツは第一次世界大戦の敗戦国ではあったが、飛行船の製造および運用技術ではアメリカやイギリスなどを引き離していた。
1930年10月5日早朝、イギリスの飛行船R101がフランス北部のボーヴェにて墜落。乗員乗客48名が死亡(生存者6名)した。以後、イギリスは飛行船計画を全面的に破棄した。
1933年 アメリカ合衆国ニューイングランド沖合にて、アメリカ海軍の硬式飛行船アクロン号が墜落。乗員73名が死亡(生存者3名)する、飛行船史上最悪の死亡事故となった。
1937年に大西洋横断航路に就航していたドイツのヒンデンブルク号が、アメリカ合衆国ニュージャージー州のレイクハースト空港に着陸する際に、原因不明の出火事故を起こし爆発炎上。この事故の後、航空機(固定翼機)の発達もあり、民生用飛行船は使われなくなっていった(→ヒンデンブルク号爆発事故)。
第二次世界大戦中のアメリカ海軍は偵察用の軟式飛行船の運用を活発化、終戦時には160機以上の飛行船を運用していた。
1959年 冷戦が激化。北極海方面から戦略爆撃機の侵入を危惧したアメリカ海軍が、大型飛行船を4基製造し、輪番制で警戒に当たらせた。だがこうした飛行船は1960年代中頃には、早期警戒機の登場や地上レーダー網の構築により運用は解消され、民生用に払い下げられた。民生用に転用された飛行船の多くは、広告用途などに広く用いられ、知名度の向上や安全性へのアピールに貢献したとされ、次世代の飛行船構想に繋がったと考えられる。

ヒンデンブルク号爆発事故 ●
 
ヒンデンブルク号爆発の瞬間詳細は「ヒンデンブルク号爆発事故」を参照

当時、ヘリウムはアメリカでしか生産されておらず、アメリカがナチス・ドイツへのヘリウムの供給を拒否したため、爆発の危険を冒しながらも水素ガスを利用していた。そのため、この事故は水素ガスによるものと推測され、水素ガスを使用する飛行船の安全性に対する信用は失墜し、以後水素による飛行船が使われなくなる原因となった。

しかし、NASAの元研究者アディスン・ベインは独自の調査・研究により、この事故は水素ガス爆発ではなく、ヒンデンブルク号の機体に使われていた布に酸化鉄と酸化アルミニウムをふくんだ塗料が使われており、これが折からの雷による帯電・放電によって火がつきテルミット反応が起きたのではないか、という説を提唱している。

理由はいくつかあるが、主として

当時の目撃証言や写真から、炎の色がオレンジ色だったということ(水素が燃えるときは無色)
当時の気象条件として雷雲が発生していて、ヒンデンブルク号はその中を突っ切るようなコースを取っていたこと
があげられている。

 種類 ●
 軟式飛行船

浮揚のためのガスを詰めた気嚢と船体が同一で、ガスの圧力で船体の形を維持する形式。重量やコストの面で有利であり、現代の飛行船はほとんどがこのタイプである。しかし、ガスの放出によって圧力が弱まると船体を維持できなくなる。突風などによって船体が変形するとコントロールを失ってしまう。また、一旦気嚢に穴が開くとガスの漏出が全体に影響するなどの欠点もある。また、船体の剛性が確保できなくなるため大型化に適しない。

 硬式飛行船、●
金属の枠組みを作ってそれに外皮を貼り、複数の気嚢をその内部に収納する形式。金属製の枠組みにより船体の重量が増加する欠点があるが、船体の強度が高くなるため大型化、高速飛行が可能。

ツェッペリン伯による飛行船がこの型である。

 半硬式飛行船 ●
詳細は「半硬式飛行船」を参照

ゴンドラを吊り下げる部分など一部分にのみ金属等による骨格を用いた軟式飛行船。たとえば骨格が3本と、第一次大戦時の飛行船と比べて明らかにそれが少ないツェッペリンNTがこのタイプである。

また、イタリアの飛行船『イタリア号』[1]。のように、気嚢の下半分のみに枠を持ったものもあった。これも半硬式飛行船と呼ばれていた。

現在、ツェッペリンNTが『半硬式』と呼ばれるように、ただ単に構造上において気嚢の半分だけが枠組みを持っているわけではないことに注意が必要である。

半硬式の利点として、硬式よりも骨格が少なく軽量化できるにもかかわらず、硬式飛行船と同様に大型化が可能である事、硬式同様に枠組みにエンジンや船室を取り付けられるので設計に柔軟性があり制約が少ない事がある。

たとえばエンジンと船室を離れた場所に設置できるので、船室内の環境が快適である利点がある。

 全金属製飛行船●
米海軍は戦前実際に全長44.5mの全金属製飛行船(ZMC型)を造ったが、当時はジュラルミンの薄板を300万本のリベットで接合するなどの苦労があり、主力飛行船型には採用されなかった。しかし現在の素材や接合技術を用いれば、こうした構造もまた十分再検討に値すると考えられる[2]。

日本国内での飛行船を用いた広告 ●
 
飛行船を用いた富士フイルム広告
ニッセン「スマイル号」キドカラー: 日立製作所のカラーテレビ、愛称は「ポンパ号」
積水ハウス: 岡本太郎デザインのレインボー号(社名等のロゴを書かずに飛んだ)
ダイワハウス
docomo
グッドイヤー
東京ドームにおける無線操縦による小型飛行船: スリーボンド、バンプレストなど
ニッセン: 「チョッピー号」「スマイル号」
アサヒスーパードライ号
フジカラー号
1984年のロサンゼルスオリンピックの際にフジフイルムがコダックを差し置いてオリンピック公式フィルムの権利を取得し、アメリカ合衆国上空をフジカラーのロゴが描かれた飛行船が飛んだ。アメリカ国民及びコダック社はさすがにプライドが傷ついたようで、その後オリンピックの公式記録フィルムは全てコダックが権利を得ている。
コダック号
フジカラー号の宣伝効果に対抗してコダック社も1980年代後半にコダックの宣伝飛行船を飛ばしている。1号が事故で失われ、2号も造船された。
コニカ号
上記2社に対抗すべくコニカも小西六からコニカへのCIの時期に飛行船を建造している。いずれもバブル経済華やかな時期であった。
Yokoso! JAPAN号
はるばるドイツから日本に来た。当初はロシア上空を飛行して日本に到着する予定だったが、諸事情から運搬は途中、コンテナ船に乗せられた。愛・地球博の閉会式でも飛ばされた。日本飛行船所属の Zeppelin LZ N07-100型(機体記号 JA101Z)。
BMW号
Yokoso JAPAN 号同様、日本飛行船所属の Zeppelin LZ N07-100型。

 

 

 イロイロトインターネットで検索し皆様の意見を参考に決めました・・・

    精米機「和の鉄人」道場六三郎プロデュースMICHIBA KITCHEN PRODUCT 精米器

        MB-RC71-R/  5合の玄米を約2分45秒ですばやく白米に・・・・

             道場六三郎の精米機を購入しました

 

 

魚沼産のコシヒカリを早速精米します 

  写真の玄米は「青玄米・みどりのお米」です。

 

青玄米は、なかなk聞きなれない玄米ですが、、今注目の玄米でもあります

  青玄米には白米や玄米をしのぐ栄養が詰まってます。

    育ち盛りの若い玄米のことを「青玄米」といいます。

      育ち盛りの青い実の果物をみると、栄養が足りないのでは?

            というイメージがありますが、お米は違うのです。

                 若いお米には成長するための栄養がタップリつまっているのです。

 

P1150614.jpg P1150617.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音も静かでなかなかのものです・・・・

   かなり満足・・

      操作も簡単・・以前20年前の精米機はお役御免となりました。

P1150616.jpg P1150618.jpg

 

どんどん、お米が白くなります

   回転してるので、見ていてもあきません・・                                        

P1150621.jpg P1150624.jpg

P1150625.jpg

 

ケースにぬかだけが残ります

お掃除も簡単ラクチンです 

 

 

 

 

 

 

 

P1150626.jpg

 

 精米したお米をザルのような

  簡単な扱いよい構造になってます

 

 

 

 

 

                                             

 

 

 

P1150638.jpg炊飯器で

  モチモチ白米の完成

 

美味しすぎて・・太っちゃう・・・

 

 

 

 

 

 

 

★精米機のウンチク★   フリー百科事典参照

精米機(せいまいき)とは、玄米または籾から糠(ぬか)を取り除いて白米にするために用いる農業機械である。

糠を取り除いて白米にする作業工程は精白と呼ばれる。一般の食料用(飯米用)に生産された玄米を精白する主な目的は、米の消化吸収を助け、食味を良くするためである。玄米の外周部分約7〜10パーセントを削り落とすので、実際の白米は精米歩合が90〜93%程度となる。

一方、酒造用に使用する米も精白されるが、その目的は食料用の場合と異なり、口当りが良くて雑味のより少ない酒を醸造するためである。精米歩合はさらに高くなる。

英語でRice polishing machine、Rice polisher、Rice whitening machine、Rice whitenerなどと呼ばれる。
種類●
 
コイン精米機(右の玄米投入口に玄米を入れ、硬貨を入れて好みの白さのボタンを押すと精米が始まり、左からコメが出てそれを袋に落とす。おおむね玄米からは10kg100円、籾米からは6kg100円。) 構造上の区分 ●
その構造から見た場合、次の種類がある。

 摩擦式精米機●これは、主に玄米相互間に作用する摩擦力によって玄米の糠を除去する方式である。

循環式精米機
上部に備え付けられたロート状のタンクに玄米を入れ、タンク下部にあるローラー(回転刃)が糠を除去する。タンクの下部では玄米に掛かった圧力を利用して糠を削ぎ落とす。研磨の工程で一定の圧力を掛ける必要があるため、一度の作業で1斗(15キロ)ないし2斗の玄米を投入するようになっており、少量の玄米を精白する用途には向かない。適正な圧力が掛かっているかどうかを「圧力メーター」(圧力チェッカー、または抵抗メーターとも呼ばれる)で確認できるようになっているものが多い。1度の研磨では糠を完全に除去することができないため、タンク内で循環させながら複数回に渡って研磨を行う。例えば、1斗の玄米を精白するのに要する時間は、約40分前後である。研削式精米機に比べると、米粒が砕ける心配がなく、熱の発生が少ないため品質の低下もあまりない。籾から直接精米できるタイプの機種も多い。

撹拌(かくはん)式精米機
精米カゴ(ホッパー)の中でかくはん棒(あるいは羽根)が回転することによって、玄米同士や玄米と精米カゴを摩擦させて精米する方式である[1][2]。近年登場した小型の家庭用精米機に採用されている方式であり、一度に精米できる容量が主として1合〜5合程度という非常に容量の少ないものであるが、家庭でその都度利用したいという目的にはかなっているといえる。

 研削式精米機 ●
これは、摩擦式のように大きな圧力をかけず、表面が砥石状のロールで研磨することによって玄米の糠を除去する方式である。

縦型精米機
これについては、縦型精米機の項目参照のこと。

横型精米機
米穀店(米屋)などの業者が広く利用している精米機である。研削ローラーが横方向に取り付けられており、1度の研磨で糠を落とすことができるため、精米に要する時間が短時間で済むという利点がある。1回通し式精米機と称されることもある。構造が簡単で、小型化が容易なため、最近は家庭用の小型精米機も市販されるようになった。今日発売されている家庭用精米機の中には、無洗米コースを備えた機種さえ存在するようになっている。精米したばかりの米が美味しいということで、都市部の消費者がこの小型精米機を購入する例が増加している。なお、籾から直接精米できるタイプの機種は少ない。

 利用形態より●

コイン精米機
利用形態から見た場合に、コイン精米機がある。コインランドリーがごとく、硬貨を投入することで一定時間稼動する仕組みを備える。穀倉地帯に特に見られ、農協やホームセンターなどの駐車場、街道脇などで、風雨を避ける小屋の中へ設置される。稲作農家の出荷先がライスセンターとなり、出荷に際して精米不要となった背景から精米機を持たない農家も多く、自家消費米の精米に利用されるほか、農家から嫁いだ先の家庭が実家から玄米や籾米を譲られた場合などの精米に利用される。なお、国内では収穫直後に玄米に加工する場合が多いため、籾米に対応した精米機はごく稀である。

業務用精米機
米穀店が業務用で精白するための大型・高能率な精米機。

農家用精米機
主に稲作農家が自家飯米用に利用する、業務用精米機と家庭用精米機の中間程度の機種。

家庭用精米機
家庭でその都度精米できるように作られた小型の精米機。

もっとも、農家用精米機と家庭用精米機は相対的な区分でしかない。ライスセンターへ出荷する生産農家の場合、それほど大きな精米機を必要とする事情がないことも多く、上述のようにコイン精米機に頼ることもある。

 

 

雑草でポピーのような花ででが、

   この花をほっとくと大切なお花や木がかわいそうな状態になってしまいます・・

 

見つけたら駆除しないくてはいけないのです

  「外来ヒナゲシ増殖中 生態系乱す恐れ」と新聞に記載されてます

     すごく、やっかいな花なのです 

 

IMG_0083.jpg 

ポピーのような綺麗な花です

 

鑑賞してから、採取しても良いですが・・

 

出来たら、見つけてすぐに切ったほうが良いようです

 

 橙紅色で5cmぐらいの花を長い花枝の先につけてます。

花枝が長いのは種子を遠くに飛ばすためです。

家庭の庭先で多く見られるようです。

 

 

IMG_0085.jpg

 今はまだ、ひっそりと咲いてますが

   来年はきっと一面

      ながみひなげし

         満開です・・・

 

 

 

 

 

 

 

IMG_0084.jpg

 

この、花の中心が問題です

1花に1000から3000の繁殖用に種があります 

 

 強いので、他の花・草の領域を侵して進入します

 

 

 

 

 

 

 

IMG_0085.jpg-52.jpg

 

こんないかわいいのにね・・・

 

毒きのこみたいです

 

見た目と実態との違い 

 

 ナガミヒナゲシ(長実雛芥子) と書きます

 

 

 

 鑑賞するもよし・・・

  しかし、庭一面近い将来ナガミヒナゲシだらけにらけになるかもしれませんね・・・

 

外来ヒナゲシ増殖中 生態系乱す恐れ  5月17日15時54分配信 産経新聞抜粋

 地中海沿岸が原産地で鮮やかなオレンジ色の花を咲かせる外来植物「ナガミヒナゲシ」。ここ数年で急速に分布が広がっているという。昨年はこの花をモチーフに作品を発表した歌人が短歌の新人賞を受賞。美しい花だが、繁殖力が強く、生態系を乱す恐れがあると指摘する専門家もいる。

 ケシ科の一年草だが、アヘンの成分はない。実が長いことから、この名になった。最初の発見は東京都世田谷区で昭和36年。輸入堆肥(たいひ)に混じって種が入ってきたとの説もある。

 農業環境技術研究所が東京農大と共同で全国の専門家に呼び掛けて分布調査をしたところ、平成19年時点では青森、沖縄の両県を除く全国で確認された。アルカリ性土壌を好むため、都市部に多いのが特徴。道路沿いの植え込み、コンクリートの割れ目から生えている姿も見られる。

 京都府に住む歌人、やすたけまりさんも3~4年前にこの花に気付き、その後に読んだ本でナガミヒナゲシであることを知った。自身も昭和36年生まれ。「たまたま同じ年に同じ国に来たのかと思うと、面白くも切なくも感じた」という。

 以来、関心を持ち昨年は「ナガミヒナゲシ」という30首の連作を発表。短歌研究新人賞を受賞した。その中の1首。

 なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました

 きれいな外来植物の仲間が1つ増えたわけだが、農業環境技術研究所の藤井義晴上席研究員は「駆除が必要」と話す。

 藤井氏によると、1株から100個超の実ができることもあり、1つの実には約1500個の種が入っている。つまり、1個体が15万個以上の種を作ることができ繁殖力は極めて強い。最近の研究で、根などから出る物質は、ほかの植物の生育を阻害する作用が強いことも判明したという。

 藤井氏は「きれいなので庭で観賞する人もいるが、ほかの植物が育ちにくくなる」と指摘。平成12年以降に爆発的に増えているといい「防除しにくい雑草となって、生態系を乱すリスクが高い」と話している。

★ナガミヒナゲシウンチク(フリー百科事典参照)

ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟、学名Papaver dubium)は、ケシ科の一年草。地中海沿岸から中欧にかけての原産。

日本では帰化植物として知られる。1961年に東京都世田谷区で初めて確認され、以後群馬県、福岡県などにも分布が広がり、現在では温暖な地方の都市周辺を中心に繁殖している

アルカリ性土壌を好むらしく、コンクリートによってアルカリ化した路傍や植え込みなどに大繁殖しているのがよく見られる。日本では年度変わり以降の5月ごろに役所や企業の予算が付いて、路肩や中央分離帯、空き地などの除草作業が行われるが、この頃には既にほとんどの株が結実を終え枯死しているためなかなか減らない。むしろ除草機の振動により種子を周囲に撒き散らすなどするので、除草の意図とは逆に翌春になると前年より増えていることの方が多い。

高さは栄養状態によって異なるが、15cmくらいから最大60cmぐらいにまで成長する。葉は細かく切れ込む。春に開花し、紅色、もしくは肉色と評される赤い花を付ける。果実(芥子坊主)は細長く、このことからこの名が付けられた。蕾の中には文字通り芥子粒の大きさの種が入っており、蕾が茎から落ちて種を地面に落とす。ナガミヒナゲシからは阿片は取れない。また、茎が切れると黄色い液体が出てくる。

ひとつの芥子坊主から1000~2000の種子(ケシ粒)をばら撒いてしまうために爆発的な繁殖力を示す場合があり、地場の他の草花を駆逐してしまう可能性がある。そのため、園芸花として楽しむには花が終わり次第摘み取る(摘花)等の種子拡散を防ぐ注意が必要。
 

 

 

本当に長い闘病生活でした。

管理人ではなく・・家族の入院です。

母上の入院生活でした。

正確には48日かな?

毎日、毎日・・・横浜から東京の御茶ノ水まで通いました・・・

 手術の前4日の検査中1日にはお休みましましたが、残り全部通いましたね・・・

   本日、無事退院したので明日から、そのお仕事から解放されます・・・・

     外来だけ、一緒に行けばいいんだな・ぁ・・・  よかったぁ・・

 

東京にある御茶ノ水駅前の東京医科歯科大学病院に入院してました。

  肝胆膵の科にお世話になってました

   「膵臓のう胞」でした、詳しくは後日お知らせします・・

 

入院中のお話し

  某大学病院に5年通院したり入院したりのご婦人

    病名は肝臓がんです。

      肝臓に20ミリの癌があり、放射線治療や、飲み薬・・・

        髪の毛は抜けたり、吐き気などもあり毎日が苦しかったそうです・・

          お薬も高額だったようです・

    そこで、東京医科歯科大学病院の病院を変えて外来で診察したら・・

      「20ミリなら、肝臓の一部を切除しましょう・・難しくないですよ

        高い薬と薬害に苦しまなくて住みますよ

         アッというまで間ですよ・・・」との診断で手術されてました

     約2週間で退院となります

      お体も調子が良いようです・・・・

 

思い切って、病院を変える勇気も必要なのですね・・

 

お世話になりました・・

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