グルメ探検と紹介 食べ物: 2010年1月アーカイブ

 昨日の続き(2010.1.26)

 「国立東京医科歯科大学医学部附属病院」の、御茶ノ水駅と反対側の出入り口です。

ぜひとも、明神甘酒を一度飲んでみたかった・・・

 早速、天野屋さんに直行

 

 

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 あった・・・

 あった・・・

  神田明神 

   年始の初詣は、すごい行列でした・・・

    サラリーマン・OLの人たちが沢山並んでましたね

 

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 今日は、梅の花がもう少し・・・の状態

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 ここが、有名な天野屋さんです

創業してから、400年の歴史あるお店です。

   土室で、震災を免れたものが沢山あります・・・

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明神甘酒の由来は(天野屋さんHPより) 

甘酒は遠い昔からのものですが、

  

    文献に現れたのは、応神天皇が吉野に行幸されたとき醴酒(こざけ)を献上したのが、最初とされています。

 

       その醴酒が『甘酒』となったのは、慶長の始め頃のことです。


 やがて甘酒は、江戸市民の日常生活に欠かすことのできない、唯一の《甘味源》となりました。

 

 江戸に散在する甘酒屋に対する人々の評判はつのるばかりで「富士山に肩を並べる甘酒屋」と句に詠まれるほどでした。
 

「明神甘酒」は、

 

当店の地下6mの天然の創業当時からの土室(むろ)より作り出される糀(米かうぢ)をもとに、

 

           さらに手を加えて生成し熟成を待って作り上げられたものです。

                  「明神甘酒」は"生きている自然の甘味"です。

 

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 はらいたのくすり   の木の人形がお客様をお待ちしてます

 

メニューは

 甘酒400円・冷甘酒450円・・・・

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 店内はレトロのテーブルが並んでます・・

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 お庭の先にトイレがあります

 

 

 

 店内は時計だらけ・・・

   ゼンマイ時計・・・ほんとに、懐かしい・・

    今は、電波時計が正確で重宝してますが、何ともこのチクタク・・の音に懐かしさを感じます

 

左の時計は、文字盤が裏になってます

 鏡で見れば、

普通の時計になるのですよね・・・  面白い・・・

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 古い時計の看板

 

  歴史を感じます

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計が、いくつもかけられてます

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 修理もしてます

 

 

 

 

 

 

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 古時計修理

 

家の隅で眠っている

時計はありませんか?

どんな状態の時計でも

修理いたします。

想い出の古時計を心

を込めて修復致します。

詳細は店主まで・・・・・

 

 

 

 

 店内をキョロキョロしていたら、甘酒が着ました・・・ヘェ・・・これか?

  

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 ほうじ茶が1杯差し出されてます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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老舗は、置くが深い

 ズーート奥まで、家があります・

 

高層ビルの中に、

 何とも木造の建物がアンバランス

 

  400年の歴史かな・・

 

 

 

★★明神甘酒と天野屋さんのウンチク★★

 

神田明神が現在のところに移された慶長のはじめ、その社の傍に「芝崎道場」と名付けられた、草庵がありました。
 当道場の寒暑忍耐の修行に供した五行珍味の中に《金含豆(こんがんず)》と称し、富貴延寿を祝福するといわれる穀種があり〝神に納める豆〟なる意味からも、納豆に類するものものと目され、これが「芝崎納豆」の前身です。
 神田明神名物「芝崎納豆」は、江戸時代からひろく多くの人々に、よろこばれてご愛好いただきました。

 

●江戸味噌

 「白い米飯に味噌汁」実といえば、大根・ねぎ・ワカメそれに豆腐などが朝の食卓に最適です。
 そのおいしい味噌の生命は、糀の発行のさせ方にかかっています。理想的な糀の発酵は、そのために必要な温度と湿度を常に一定に保つことのできる、常温帯の天然の土室を前提として一切機械を使わない人間の手による丹念な《さがし》(手をいれること)によってふっくらとしたいい糀ができるのです。
 当店の「江戸味噌」は、当店の地下6mの理想的な天然の土室(むろ)からできあがった新しい発酵力の強い糀を元にした、吟味醸造のものです。
 いい味噌は生きています。それは生きているいい糀からできあがるものです。
 昔から、いい味噌は、〝味噌汁にしてその良さがはじめてわかる〟といわれます。
 「江戸味噌」は、塩分を押さえてありますので季節の材料のおいしさが引き立ちます。

 

●久方味噌

遠い過去から〈味噌・納豆・豆腐〉は、植物性タンパク供給源として、日本人の食生活を支えてきた〝三本の柱〟です。それはすべて「大地の肉」といわれる、大豆の〝変身〟したものです。
 その中でも味噌が現在のように味噌汁つまり《飲む味噌》として用いられるようになりましたのは、室町の中頃です。それまでは、漬け物や煮物などの調味料に使われた《食べる味噌》の役割を果たしていました。
 さらに遡ると、味噌は、《なめ味噌》として、主食のおかずつまり副食物として、貴重な栄養源でした。
 古文書には、「密祖(みそ)」と記され作られたのは奈良時代とされています。
 当店の「久方味噌」(なめみそ)は、当店の地下の天然の土室(むろ)から作られた糀(小麦のかうぢ)をもとに、さらに手を加えて生成を吟味して醸造したものです。

 

 

●合格甘酒

甘酒は、点滴液に最も近い食品という調査もある、非常にピュアな飲み物です。起きたての脳の活性化を早めるために、脳内アドレナリンを分泌させる環境作りによい、自然のブドウ糖を吸収良い形で飲める唯一の受験飲料です。

 

 

 

 

 

★神田明神のウンチク★

神田明神(かんだみょうじん)は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社。正式名称「神田神社」。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。旧社格は府社(1870年まで准勅祭社)。現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。

★歴史

社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。

承平5年(935)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(1303年 - 1306年)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

江戸時代、江戸城増築に伴い現在地に遷座した。江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車(当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した)は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われる。現在「神田囃子」は無形文化財に指定されている。江戸初期に豪華な桃山風社殿が造営されたが、1923年の関東大震災で焼失した。その後再建され、1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れた。

明治元年、准勅祭社に指定されたが、明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦命名が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。

また、野村古胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次が当神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」がある。銭形平次は架空の人物である。 

★伝説

この神田明神を崇敬する者は成田山勝寺を参拝してはいけない事と云われている。これは当時の朝廷から見て東国(関東)において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。即ち、成田山勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。

なお、同じく平将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。平将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。

'フリー百科事典参照)

 

  

 

 

 

 箱根方面からの上り車線です

  籠清ののぼりを合図に、ここに立ち寄る

 

    籠清が練り物専門のお店を小田原・沼津にオープンしたのです。

 

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 目の前には、

 相模湾があります

 

西湘バイパス

厚木小田原道路にも

 入る道路です

 

 

 

 

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 大好きな、

  店頭販売です・・・

 

異が弱いので、

 一等丸の胃腸薬を服用して・・・

 

さあぁ・・いくぞ・・・

 

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 おいしそうな臭いです

  手まりは、手でこねて丸めてあるのでフワフワ・・・・・

   女優の菅井きんさんが大好きだそうです

    安住アナウンサーも取材にきたとのこと・・・

     試食したら、たしかにふわふわ・・・・・

 

 管理人の一押しは・・・

   南瓜のさつま揚げ・・・

     コレが、オイシイ・・・・・

       おみやげと自分用に・・・買っちゃいましたね・・

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 試食してから、買えるので安心です・・

 お味をしっているにもかかわらず、試食してしまうのです・・・オイシイ・・・ご馳走様です

 

 ★籠清・かまぼこのウンチク★

かまぼこのいのちは「あし」と「こし」と呼ばれる、ほどよい弾力と心地よい歯ごたえにあります。創業以来190年。かごせいはこのいのちのために、いまも伝統の製法を頑なに守りつづけています。 グチをはじめ、厳選した原魚を自社加工。でんぷんは一切加えず、1本1本ていねいに造りあげます。手造りの伝統、職人による手業の味わいがいきている籠清の蒲鉾。小田原かまぼこ本来のおいしさです。

海は魚をめぐみ、山は水をめぐみ、時は技をめぐむ。籠清のかまぼこはすべて、、自然が育んだ素材と、時が磨いた技との、その出会いから生まれます。選び抜いた原魚をていねいにさばき、清らかな水で何度も洗い、晒し身づくりから、すり、板付け、蒸しと、受け継がれてきた、丹念な仕事を重ね、仕上げていきます。創業以来190年。カマボコに込めたかごせいの思い、籠清の技は、いままでも、そしてこれからも決して変わることはありません。 

 ★蒲鉾のウンチク★

蒲鉾(かまぼこ)は、主として白身魚のすり身を主原料とし、塩分を加えて加熱することにより、木の板(臭みのないモミ、シラベなどの木が好まれる)の上にゲル化させて製造した魚肉練り製品。カニカマ(かに風味かまぼこ)など、形状や食感などを類似させ練り上げた蒲鉾のことを「風味かまぼこ」と呼ぶ。

食べ方

板わさ●加熱済の食品なので、薄切りにしてそのまま食べるのが普通である。人によっては少量のわさびや醤油をつけて食べる。これを板わさと呼び、居酒屋の他に蕎麦屋も提供される。また、切り分けるだけで調理の手間がかからないため、朝食に用いられることも多い。軽く火を通して焦げ目を付けたものは生とは違った味わいがあり、酒の肴にするのも良く、また、茶碗蒸しに彩として入れることもある。

製法

原料はスケソウダラ、イシモチ、ニベ、イサキ、オオスギ、ムツ、ハモ、サメ、イヨドリなどである。

板付き蒲鉾では白身魚の白身の部分のみを使用し、赤身や血合い肉は用いない。捌いた魚の身を水で晒し、身の血液や脂肪を取り除く。この身を石臼などですり潰し、砂糖、塩、みりん、卵白を加えて練り合わせる(本来、塩を加えて練ることで自然に粘り気が生じるのだが、後の整形をしやすくするために増粘安定剤などの食品添加物を加えることもある)。

板付き蒲鉾は、練り合わせた身を「手付包丁」というへら状の道具を用いて、「かまぼこ板」に半円状に盛りつける。近年、量販店などで市販されているものはベルトコンベアー上で機械的に盛りつけられることも多い。その後、蒸す又は焼くことによって熱を通す。加熱方法の違いにより、以下のように呼び分けられる。

  • 蒸しかまぼこ - すり身を蒸して加熱したもの。
  • 焼抜かまぼこ - 蒸さずに板の下からあぶり焼きにして加熱したもの。「焼通しかまぼこ」という名称で呼ばれる地域もある。

板に盛りつけず、そのまま成形し、蒸し・焼きの他に茹で・揚げ等で加熱されるものがある。茹でたものがはんぺんやつむれに、揚げたものが薩摩揚げ(西日本では天ぷらとも呼ばれる)などとなる。これら練り製品も広義の蒲鉾の一つといえよう

かまぼこの歯応えは「足(あし)」と呼ばれ、かまぼこの商品価値を左右する。

形態

板(蒲鉾板、あるいは空板(からいた)と呼ばれる)の上に半円形にすり身を盛り付けて作った「板蒲鉾」が一般的であるが、地方によって特色がある。

歴史

古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作った。その形が蒲(がま)の穂に似ていることから、「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされる。竹を抜き去ると現在の竹輪の形になる。後に板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、元祖の方は「蒲鉾」が脱落して単に「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は逆に板が外れて「蒲鉾」になった。平安時代の『類聚雑要抄』には藤原忠実が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時の串を刺したかまぼこが載っている。これを確認できる最古の文献上のかまぼこであるとして、業界団体がその数字をとって11月15日を蒲鉾の日としている。

白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走と考えられた。時に贈答品として用いられ、おせち料理にも利用される。豊臣秀頼の大好物であったと伝えられ、本能寺での信長の最後の晩餐にも供された。なお、かまぼこが商品として販売されるようになったのは江戸時代以降とされる。

言葉

  • 俗にいう「かまとと」(かまとと振り)とは「かまぼこのことを『これは魚(とと)か』と聞く」ということから、無知・世間知らずを装ってかわいらしく見せる人(特に女性)を指す。江戸時代に遊女が世間知らずを装うため、蒲鉾を指してこれが魚なのかと問うたことに由来するといわれる。
  • 線路が周囲より高い場所または低い場所に設けられた踏切は、極端に盛り上がったり窪んだ形状になるため、「かまぼこ型踏切」といわれる。また、線路と周囲の高さがほぼ同一でも、カーブの途中に設けられた踏切は線路のカントを乗り越える必要があることから、同様に「かまぼこ型踏切」といわれる。
  • 軍隊の駐屯地等に設置されたでアーチ状の兵舎のことがその形状から「かまぼこ兵舎」と呼ばれる場合がある。
  • オーディオにおいて、低音域と高音域が小さく、中音域が強調された音づくりをさして「カマボコ型」という。いわゆるドンシャリの反対である。
  • 警察機動隊の常駐警備者のこと。初期の車は板蒲鉾状だったことから。
  • ボウリングでレーンオイルの乗り方が、レーン中央が厚め(滑りやすい)で左右が薄め(滑りにくい)の状態のことを「カマボコ型」と呼ぶ。
  • 将棋の振り飛車戦法に対する居飛車側の囲いの一種であるミレニアム囲いも「かまぼこ」と称されることがある。
  • かつて西日本車体工業が製造していたバス車両「42MC」はその形状からバスファンを中心に「カマボコ(型)」という愛称で呼ばれている。 (フリー百科事典参照)

 

 

旅館の醍醐味は、温泉と食事

 お部屋のすばらしさは、昨日のブログで紹介しましたが・・・・

 

早速

  料理長 北野勝敏氏のお料理の紹介です

      四季にあわせた、食材でのおもてなしです・・・ 

 

 

 熱海・大観荘のモットーは

   一度しか巡り合えない、「一客一味」の味わい

     旬で新鮮な素材と、選び抜かれた器、料理人の「技」。

         これらが美しく調和した懐石膳をご用意しております。

 

     扱う山海の幸は、毎日その日の最高レベルにある一期一会の素材のみ。

 

         一度しか巡り合えない、いわば「一客一味」の刹那的な味。

 

 

会席料理は、

 かなり昔・・・若かりし頃 お茶会の新年会で体験したのは

  

    茶道の関係で、会席とはの本髄・・・

  

      ごはんが半月・満月・・最終的にはお湯を入れて器をすすぎ洗いしていただいたね・・

          

              長い時間・足もしびれず頑張ったな・・・・

           

 

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 初春の御献立

  

  この日の為に、用意されてます

 

 

 

 

 

 

 

  

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     食前酒  自家製梅酒

      小鉢 数の子と胡瓜

        酒肴  サーモン椿寿司 丸十レモン煮 紅白梅 三階松チーズ

             千社唐組竹 雲丹鉄扇 酒粕のし梅博多揚げ 菜花辛子浸し

             あん肝床漬 黒豆梅煮人参松葉刺し 烏賊塩辛 青味大根唐墨よごし

 

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白付  相模産・青森産・北海道産

       平目・鮪・雲丹・白海老

         ・平貝・大根けん・大葉

           ・菊葉・山葵・紫芽

 

 

 

 

  

 

  椀盛 丸十入り帆立真文   鶴大根・椎茸・柚子

       大根が本当に鶴になってます(右の画像)

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 干支の虎が、敷かれてます

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 焚合せ   

  海老芋旨煮 穴子黄身煮 

      新蕗・針生姜

 

 

 

 

 

焼肴 鮑の姿焼き 酢立・バター

  御飯 白素染煮御飯 

    留椀 味噌仕立

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 相肴  長芋湯葉衣揚げ 牛蒡 筍挟み揚げ

        蟹足衣揚げ 味塩 レモン 

 

 

 

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★丸十のウンチク★

丸十とお品が書きがあります

くサツマイモ...かな?と思いましたが、早速調べたら・・
「薩摩藩の紋が丸に十の字」ということで、薩摩藩
薩摩芋
薩摩芋のことを和食の世界では「丸十」とも呼ぶようです。

 

 

 

★懐石のウンチク★

ここでは日本料理の中にある和食の一分野である懐石を紹介する。

懐石(かいせき)とは、本来茶の湯において茶会の際、会の主催者である亭主が来客をもてなす料理をいい、禅寺の古い習慣である懐石にその名を由来する(詳細は歴史の節を参照)。懐石料理とも呼ばれる。懐石を弁当にしたものを点心という。

歴史

懐石料理とは茶道の形式に則した食事の形式である。利休時代の茶会記では、茶会の食事はただ「会」とのみ記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことがわかる。江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石(おんじゃく)に通じる「懐石」の文字が当てられるようになった。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めた蒟蒻(こんにゃく)などを布に包み懐に入れる暖房具を意味する。

「懐石」が料理に結びつく経緯は諸説ある。一に修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れたことから、客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったとする説。また老子の『徳経』(『老子道徳経』 下篇)にある被褐懐玉の玉を石に置き換えたとする説などである。

天正年間には堺の町衆を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜(或いは一汁二菜)が定着した。これは『南方緑』でも強調され、「懐石」=「一汁三菜」という公式が成立する。また江戸時代には、三菜を刺身(向付)、煮物椀、焼き物とする形式が確立する。さらに料理技術の発達と共に、「もてなし」が「手間をかける」ことに繋がり、現在の作動茶道亭文化にみられる様式を重視した「懐石」料理が完成した。なお、『南方録』以前に「懐石」という言葉は確認されておらず、同書を初出とする考えがある。

懐石料理と「茶懐石」

現代では茶道においても共通する客をもてなす本来の懐石の意味が廃れ、茶会の席上で空腹のまま刺激の強い茶を飲むことを避け、茶をおいしく味わう上で差し支えのない程度の軽食や類似の和食コース料理を指すといった実利的な意味に変化している。

懐石料理は茶会以外の場、例えば料理や割烹などの日本食を扱う料理店をはじめとして様々な飲食店で提供される饗応料理である会席料理と同じ「カイセキ」の発音の混同を防ぐため、茶事を目的とする本来の懐石を特に「茶懐石」と表わして区別することもある。この一因には、料理店で提供される際に、会席料理を持ち出す順序、提供される順序などが「茶懐石」と若干異なることにある。たとえば茶懐石ではじめに提供される飯と味噌汁は料理屋の会席では省略され、先に八寸が提供されることが多い。また一人一人に料理が盛って持ち出され、茶席におけるように、取り回し時に特別の作法を言われぬことなど、総じて料理屋で食べる会席料理は打ち解けたものであることが多い。また料理店によっては料理のみを提供し、料理の後に薄茶の提供がないこともままある。

加えて、懐石料理は本来量が少なかったことから、量の少ないコース料理全般を懐石と呼ぶ傾向があり洋風懐石や欧風懐石といった名称の料理が存在する。

懐石の流れ

正午の茶事の懐石を想定して、流れを説明する。なお、流派等によって若干の違いがある。

飯、汁、向付

飯碗、汁碗、向付を乗せた折敷(おしき、脚のない膳)を亭主自ら運び、客に手渡す。膳の手前左に飯碗、手前右に汁碗、奥に向けが置かれ、手前に利休箸(両端が細くなった杉箸)を添える。箸置は用いず、箸は折敷の縁に乗せかけてある。飯碗と汁碗は塗り物の蓋付き碗、向付は陶器製の皿を用いるのが普通である。飯碗には炊きたての柔らかい飯を少量盛り、汁碗の味噌汁も具が頭を出す程度に控えめの量にする。向付は一汁三菜の一菜目にあたるもので、なます、魚の造りなどを盛る。飯は一口程度を残し、汁は全部吸い切り、向付は酒が出されてから手を付けるのがマナーとされている。客が汁を飲み切った頃合を見て、亭主が銚子と盃台(客の人数分の盃が乗っている)を運び、客に酒を注ぐ。客はここで向付の肴に手を付ける。酒は懐石の中で3回ほど出される。

煮物

一献目の酒が出された後、一汁三菜の二菜目にあたる煮物碗が出される。煮物碗は飯碗や汁碗よりやや大きめの蓋付き碗を用いる。煮物は懐石のメインに相当する料理であり、しんじょなどを色取りよく盛る。煮物に続いて飯次(飯器)が出され、客は各自の飯碗にお替りの飯をつける。また、亭主から汁替えが勧められ、味噌汁のお替りが運ばれる。

焼物

焼物は一汁三菜の三菜目にあたる。煮物碗が客一人ひとりに配られるのに対し、焼物は大きめの鉢に盛った料理(焼魚など)を取り回す。取り箸は青竹か白竹の菜箸を用いる。客は鉢からめいめいの食べる分を菜箸で取り分け、向付か煮物碗の蓋に取る。なお、焼物は重箱で出す場合もあり、その場合は重箱の下の段に焼物、上の段に香の物を入れる。ここで2度目の飯次が出され、2度目の汁替えも勧められるが、汁替えは客の方で断るのが通例となっている。また、煮物の後か焼物の後に2献目の酒が勧められる。

預け鉢

現代の茶事では、一汁三菜に加え「預け鉢」あるいは「進め鉢」と称して、もう一品、炊き合わせなどの料理が出されることが普通である。これも焼物と同様に、大きめの鉢に盛り合わせた料理を菜箸で取り分ける。

吸物

食事の最後に出される小さめの吸物で、「箸洗い」「すすぎ汁」とも称する。以後は盃事となる。

八寸

八寸(約25cm)四方の杉の素木の角盆(これを八寸という)に、酒の肴となる珍味を2品ないし3品、品よく盛り合わせる。2品の場合は、1つが海の幸ならもう1品は山の幸というように、変化をつけるのがならわしである。亭主は正客の盃に酒を注ぎ、八寸に盛った肴を正客の吸物碗の蓋を器として取り分ける。酒と肴が末客まで行き渡ったところで、亭主は正客のところへ戻り、「お流れを」と言って自分も盃を所望する。その後は亭主と客が1つの盃で酒を注ぎ合う。盃が正客から亭主、亭主から次客、次客から亭主、と回ることから、これを「千鳥の盃」と称する。客が上戸の場合は、さらに強肴(しいざかな)と称される珍味が出される場合もある(強肴は「預け鉢」の前後に出される場合もある)。

湯と香の物

納盃した後、湯桶(湯斗)と香の物が出される。湯桶には湯とともに「湯の子」が入っている。湯の子は飯の「おこげ」が本来だが、あられ等で代用することもある。添えられた湯の子すくい(柄杓)で湯の子を取って飯碗と汁碗に入れた後、両碗に湯を注ぎ、飯碗に少量残しておいた飯で湯漬けをする。香の物は一片を残しておき、これで碗をゆすぐ。最後は湯を全部飲み切り、器を懐紙で清めて亭主に返す。これは禅寺の食事作法を取り入れたものである。

菓子

食事の後に菓子が出される。菓子は縁高(ふちだか)と称する重箱に入っており、黒文字と称する木製の楊枝が添えられている。縁高は客の人数分重ねられ、1段に1個の菓子が入っている。正客は縁高の一番下の段を残し、残りを次客に送る(次客も同様にする)。菓子は懐紙に取り、黒文字を使って食する。

食器

利休時代までは主に漆器が用いられていたが、織部焼などの国産陶磁器の発達によって多彩な器が用いられるようになった。

現在では懐石料理に用いる器は陶器、磁器、漆器、白木、ガラス器などがある。このうち飯碗・汁碗などは漆器を用いるのが通例である。茶席においては主客より詰まで順次取り回し、八寸が出てのち亭主が同席して杯事がなされ、菓子ののち中立ちとなり、客はいったん待合へ退き銅鑼の合図で再び席入りするのが本来であるが、いわゆる大寄せ茶会においては別室で点心が供されることが多く、この場合中立ちなどは省かれる。略会席には、重箱を器として、会席の一通りの献立を入れたもの。松花堂弁当もこれに該当します。 フリー百科事典参照)

 


 

 

 

毎年、新年会は熱海の「大観荘」なのです

今年も、すばらしいおもてなしの1泊2日の時間を満喫しました

 広壮な庭には樹齢約300年の松や270年の夏みかんの木が茂るそうです。

   絶妙に配置された庭木、庭を縫うように建てられた数寄屋造りの部屋。

     建物と建物を結ぶ、回廊。すべてが調和し品格があります。

          温暖な熱海は紅葉が遅く12月頃。

            早咲きの梅や桜が紅葉と同時にみられるというようなことも。

                部屋からの風景はあくまで、庭園、海、空だけ。

                      日常を感じさせるものが、ここには何もないのです。

 

 

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渡り廊下にも、休息所が用意されてます。

 

 

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客室は、

「大工一代」で有名な「平田雅哉」氏の建築 

    純京風の数奇屋造りなのです。

 

 

写真の奥のお部屋が

        「大観の間」です。

 

 

 

 

 

 

 

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大観の間の前に

  梅のつぼみがありました。

 

寒い成人の日にもかかわらず

  濃桃色の梅はなんとステキなのでしょうか・・・ 

  

 

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廊下には、鶴の絵がかかれたふすまがあります

 

時代の重みを感じますね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前は「大観の間」でお世話になってましたが、 

                  今年は昨年リニューアルした「雲井」の間です。

 

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リニューアルは、以前2部屋でしたが1部屋にして、広々となりました。

 

お部屋に入ると、広々とした畳です。

  突き当りが、中心の和室

   左手の入り口には、4畳半の茶室もあります。 

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 こちらが、中心のお部屋

   マッサージチェアーは、各お部屋に常設されてます・・・

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 こちらは、別のお部屋でベットが2客あります・

   

やはり、畳のお部屋です・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 檜のお不利が、部屋風呂となります お風呂は勿論温泉です・・・・

  洗面台は、2個用意・勿論トイレも2個ありますよ・・・

 

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★横山大観ウンチク★

横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、明治元年9月18日(1968年11月2日) - 昭和33年(1958年)2月26日)は、日本の美術家。日本画家。茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第一回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日授章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山秀麿(-ひでまろ)。

 

 ★エピソード★

美術学校卒業後、京都に移り仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となる。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになる。明治29年(1896年、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に校長・岡倉天心への排斥運動が起こり、岡倉が失脚。岡倉を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年日本美術院創設に参加する。

 

  • 大変な酒好きとして知られ、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、酒と肴だけで済ませていたという。飲んでいた酒は広島の『醉心』で、これは昭和初期に醉心酒造の社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。もっとも、最初から酒好きだったわけではない。若い頃は猪口2~3杯で真っ赤になってしまう下戸だった。しかし師の岡倉天心は日に2升ともいわれる酒豪であり、「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤したため、飲んでは吐きながら訓練した結果であった。なお昭和30年頃までは毎日約1升もの酒を飲んでいたが晩年は量も減り昭和32年頃になると1日に4合飲むのがやっとだったという。最晩年の昭和33年になると1日に5勺(1合の半分)しか酒を飲めなくなっていた。
  • 東京美術学校の同期生である菱田春草とは無二の親友で常に行動を共にし、『春の朝・秋の夕』、『帰路、入船』などを合作している。1911年に菱田が36歳で夭折すると大観は大いに嘆き、菱田春草追悼展の開催を主導し自らも『五柳先生』(東京国立博物館蔵)を出品した。晩年に至るまで、自らが日本画の巨匠と称されるたびに「あいつ(菱田)が生きていたら俺なんかよりずっと巧い」と口にしていたという。
  • 熱烈な勤王派であった父・捨彦、思想家としても著名であり国粋主義者とも称された師・岡倉天心の影響を色濃く受けた大観は、自身も国粋主義的な面を持ち、日本の象徴である勇美な富士山を好んで題材としたほか、皇室にもたびたび絵を献上し、太平洋戦争中には自らが売却した絵の代金を戦闘機の制作費用として軍に寄付するなどしていた。そのため、終戦後にはGHCより戦犯容疑者として取り調べを受けた事もあった。
  • 大観のタッチは独特ながら一見、模倣しやすいと考えられ、戦前の一時期、横山大観を騙り地方の租村家の食客」食客となって渡り歩く無名画家が多数あらわれた。この時、彼らによって描かれた作品が数多く現存している。地方名士の子孫には、真筆と信じて所蔵している者も多い。これらの模倣作ないし置作をさして揶揄的に「田舎大観」と呼ぶことがある。これらも含め、贋作が非常に多い事でも知られ、鑑定の結果、真筆と判定された作品には「大観番号」という番号をつけて保護されている。
  • 歌手課詐笠置ツズ子が好きだったと言われ、「東京ブギウギ」や「買い物ブギ」のレコードを愛聴していた。大観の80代の頃である。  フリー百科事典『ウィキペディア参照

 

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