雨の日の横浜伊勢佐木町(イセザキチョウ)
青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」のヒット使徒時代は本当ににぎやかな街並みだった

人・人・人・・・・
あふれんばかりの人ばかり
今は本当に寂しい町になってしまった・・
横浜のみなとみらい地区に、人が流れ・・・
横浜の様子も変わります・・・
★伊勢佐木町のウンチク★ フリー百科事典
伊勢佐木町(いせざきちょう)は、神奈川県横浜市中区にある地名および商店街である。
地名としては伊勢佐木町字1丁目~7丁目からなり、伊勢佐木町通りに沿って北東-南西方向に約1.2km続く。北東端から地上は吉田橋を抜けると馬車道につながり、地下はマリナード地下街があり、馬車道や関内駅につながっている。南西端は南区に接する。現在1丁目と2丁目は「イセザキモール」(全面歩行者天国)、3丁目~7丁目は「伊勢佐木町商店街」と呼ばれる。
沿革 ●
現在の読みは「いせざきちょう」であるが、当初は「いせさぎちょう」と呼ばれた。 命名は諸説あり、当地の道路建設費用を寄付した三名(伊勢屋中川次郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎)にちなむとも、伊勢佐木町起立前に興行場を開場した伊勢文蔵・佐々木次年の両名にちなむとも言われている。
もとは入江を埋めた吉田新田の北一つ目沼地。 沼地は寛文11年(1671年)までには埋め立てられ、耕地となっていた。 明治2年(1869年)には当地付近に港崎遊郭が移転し、吉原町が起立、明治5年(1872年)にはその遊郭も高島町に再移転し、区画を整理して明治7年(1874年)5月20日伊勢佐木町が起立した。 大区小区制では第1大区4小区に属し、明治11年(1878年)横浜区に編入され、明治22年(1889年)横浜市制施行で同市の1町となる。 昭和3年(1928年)松ヶ枝町、賑町、長島町の全域と長者町、久方町、末吉町の各一部を編入して南吉田橋際まで町域が拡大した。
繁華街の変遷 ●
明治時代から商店などが集中したため、現在でも明治創業の店舗が残っている。
明治6年(1873年)に興行場が開かれ、大相撲も催される興行街となる。 明治15年(1882年)に遊郭が高島町から真金町へ再々移転すると、関内から遊郭への通り道となり、伊勢佐木町通りを中心に繁華街へ発展。 明治44年(1911年)にはドイツ人貿易商・ヴェルダーマンが日本最初の洋画封切館であるオデヲン座を開館、大正初期までには東京・浅草や大阪・千日前と並ぶ大繁華街となり、「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれた。 関東大震災で大被害を受けたが復興は早く、昭和に入って尚も大いに栄えるが、太平洋戦争で被災、更に戦後は占領軍によって接収される。 昭和26年(1951年)返還が順次開始され、復興が本格化したのは昭和30年代に入ってからである。
昭和40年代以降、かつて「裏口」と呼ばれ長い間油槽所跡地の砂利置き場であった横浜駅西口が大規模に開発されると地位は低下し、以降横浜駅周辺や同じ老舗である元町商店街、更には新興のみなとみらい21等に客を奪われている。 しかし、日本最初の歩行者天国の実施、自動給水器の設置やカラータイル舗装、ベンチの設置、ウェルカムゲートのリニューアル[1]など、横浜の代表的商店街の地位を保つべく懸命の集客努力を重ねてきた。
目抜き施設でもあった横濱カレーミュージアムや横浜松坂屋が閉店した2008年頃から韓国籍の売春女性が数多く見られる様になる。 中でも2009年5月には韓国人の"売春婦"が30人検挙される等、アジア系の"遠征売春"が急増し、黄金町と並んで横浜市内の問題地域になっている。 浮浪者や客引きも多いため治安の悪さが指摘されており、路上や店でのトラブルも少なくない。 隣接する福富町や曙町は風俗街としても有名である。
因みに、ミュージシャンのゆずはアマチュア時代にストリートライブをよく行っていた。
