旅行 中国・四国地方: 2009年9月アーカイブ

 

2009.9.1

広島に一度は行ってみたかった・・

 今の平和に暮らせる幸せに感謝して、

   絶対に広島・長崎には訪問したかった・・・

  今回の旅行の第一目的は「広島平和記念館」の見学です

 

     展示場に入る前に、まず「アオギリの木」の紹介をされました

       まったくの自分の知識に無さを実感・・・・

 

 

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 団体旅行でこなければ   きっと、この木々を見落としたと思います 

          バスガイドさんが、紹介してくれました

 

 

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 ガイドさんのお話

「 原爆投下で、人々は自分のことで一杯

木々に事などは、まったく気遣うことすらできなかったのです

広島には75年間草木は生えないといわれてました

その翌年の春には、幹が半分になった青桐は、3本とも新芽を出しました。

原爆に負けず、たくましく生きるあおぎりは、

当時、原爆の怪我・後遺症で苦しみ

絶望のドン底にいた人々に、

大きな生きる希望を与えてくれました。

  少しずつ時間がたち、気づくと   

    アオギリは生きていました

本来は大きく成長する木なのですが

        背丈は延びません・・

   しかし、生きるアオギリの木を見て、

    自分達の生きるエネルギーに写しかせねたそうです」

 

    ガイドさんの、お話をきいて・・泣いてしまいました・・・・

     どんな、気持ちでいたんだろう・・

       今の、広島はすごく大都市となってます・・・

        この、力はどこにあるのでしょうか?  広島の人々を尊敬してしまいました

 

  

☆被爆アオギリ☆

 

1945(昭和20)年8月6日に広島に原爆(リトルボーイ)が投下され、

           「広島には75年間草木も生えないだろう」といわれていた。

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そんな中、爆心地から約1300mのところにある

 

広島市基町(現:中区東白島町)の広島逓信局

 

(現:日本郵政公社中国支社)の中庭の被爆し、

 

爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼け

 

てえぐられたアオギリ

 

(青桐=Firmiana platanifolia Schott. et Endl)

 

    は、翌1946年の春に芽吹いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原爆の悲劇にも負けずに、たくましく育ったアオギリは、

    

   当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、

          

        現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。

 

 

原爆の悲劇にも負けずに、たくましく育ったアオギリは、

    

   当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、

          

        現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。

 

 

その(被爆した)アオギリは、

 

    1973(昭和48)年5月に平和記念公園・平和記念資料館東館北側緑地帯へ移植された

 

          (移設されたのは当初3本であったが後に1本は枯れ、現在は2本)。

  

 

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被爆したアオギリ

 

市内東白島町の中国郵政局(旧広島逓信局)の中庭(爆心地から約1300m)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられましたが、その傷跡を包むように成長を続けています。

 

 

 

 

1973(昭和48)年5月に現在地へ移植されました。

 

 

  

 

 

 

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 被爆アオギリ二世

 

平成12年(2000年)夏、

 

この場所から約10mはなれた植え込み

 

の中で自然の実生から育っていた

 

『被爆アオギリ二世』と確認できる

 

苗木が見つかりましたので

 

平成15年(2003年)3月19日に

 

移植しました。

 

 

 

 

 

 

 

Metisさんの 母賛歌」

 

       日本テレビ系「誰も知らない泣ける歌」の放映で爆発的に視聴された歌です

 

    その、

 

Metisさんが、原爆の悲劇を語った歌です。スッゴク、綺麗な声です・・・ 

     

     歌詞だけでも読んでください。  

          

           もしよかったら、視聴してください

 

http://www.youtube.com/watch?v=wKAuI6uf1cA

 

 

          アオギリの木の下で・・・


         歌・作詞・作曲 Metis

 

 

 

          祈りこめて今日も流れる太田川         P1100822-1.jpg 
           夏の日に高く羽ばたく千羽の鶴
              アオギリが問いかけ息をする
                あの日のことは未だ解けきれぬまま         

              蜃気楼に奪われたあなたへの一言
                  誰もが明日を夢見てた頃
                あなたに伝えたいことが
                     時代を超えてここにある

                    I long for wish peace at all               
                     愛に溢れた眼差しを 
                    静かに眠りたもう         P1100890.JPG-.jpg--2.jpg     
                   過ちは繰り返しませぬから

                    浮かんでゆれる 声無き命の
                    叫びがあの日を語り始める
                 新たな時代がそこまで来ている
                 君の目にそれはどう映る          

                    機械が心のありかを忘れさせる          
                    便利が自由を変えてゆく               
                    我らに神が試している
                  誰もが手をとり歩める時を

                    咲いては散る花のように      P1100847.jpg   
                       記憶もいつか薄れるように
                  だけど あなたには分かって欲しい              
                   悲しみは未だ解けきれぬまま           

                   I long for wish peace at all         
                     愛に溢れた眼差しを
                      静かに眠りたもう
                 過ちは繰り返しませぬから

             I long for wish peace at all
                 愛に溢れた眼差しを
                  静かに眠りたもう
                  過ちは繰り返しませぬから

 

★広島の歌グランプリ「アオギリのうた」   作詞・作曲/森光七彩

 

   電車にゆられ 平和公園
   やっと会えたね アオギリさん
   小学校の校庭の木のお母さん
   たくさん たくさん たね生んで
   家ぞくがふえたんだね よかったね
   遠いむかしのきずあとを
   直してくれるアオギリの風
   遠いあの日のかなしいできごと           

 

   資料館で見た 平和の絵
   いろんな国の 人々や
   私がみんなが考えてゆく広島を
   勇気をあつめちかいます
   あらそいのない国 平和の灯(ひ)
   遠いむかしのできごとを
   わすれずに思うアオギリのうた
   これから生まれてゆく広島を大切に 

   広島のねがいはただひとつ
   せかい中のみんなの明るい笑顔

 

 

 

  

 

★被爆アオギリの木★

1945(昭和20)年8月6日に広島に原爆(リトルボーイ)が投下され、「広島には75年間草木も生えないだろう」といわれていた。 

そんな中、爆心地から約1300mのところにある広島市基町(現:中区東白島町)の広島逓信局(現:日本郵政公社中国支社)の中庭の被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられたアオギリ(青桐=Firmiana platanifolia Schott. et Endlは、翌1946年の春に芽吹いた。 

原爆の悲劇にも負けずに、たくましく育ったアオギリは、当時絶望の中にいた人々に生きる希望を与え、現在もその傷跡を包むようにして成長を続けている。 

その(被爆した)アオギリは、1973(昭和48)年5月に平和記念公園・平和記念資料館東館北側緑地帯へ移植された(移設されたのは当初3本であったが後に1本は枯れ、現在は2本)。

 

 

★アオギリの木  青桐★ 

所属:アオギリ科 アオギリ属 

特性 落葉高木。樹皮は緑色で平滑である。1年生枝は太く緑色で帯黒色の斑紋がある。葉は大形で扁円形をなし互生し、長い葉柄によって枝先近くに集まり浅く3~5裂し、もとは心臓形で縁には鋸歯はない。枝先に大きな円錐花序をつけ、多数の小さな花を開く。果実は5個の分果となり、放射状に開出し、乾いたさやで成熟前に裂開して舟状となり、縁にいくつかの球状の種子をつける。種子は球形である。 

分布 琉球、台湾、中国、インドシナの亜熱帯(まれに暖帯)に分布する。しかし、本州(伊豆半島、紀伊半島など)、四国、九州の沿海地方に半自生状態のものが見られる 

用途 材は器具材、下駄材などとし、葉はタバコの代用に使われることがある。種子は食用とする。木は庭園、街路などに植えられる。 

備考 向陽地を好み、成長が早い。アオギリは青桐の意で、葉がキリの葉に似ていて、樹皮が緑色だから名付けられた。 

開花時期: 6~7月   果実成熟期: 10月

 

 

 

★リトルボーイ  Little Boy

広島型(ウラニウム235=材料は60キロ〔サッカーボールぐらい〕)原子爆弾 

リトルボーイ:1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾のコードネーム.

直径71cm,長さ3.05m,重量4.1トン,TNT火薬12.5キロトンに相当

激しい熱線、爆風、放射線。一瞬で命を失った人、生きて死の苦しみを味わった人、今に至るまで後遺症にさいなまれる人々。数十万に及ぶ死傷者の大半が普通の市民や子供だった。

広島には人類が初めて経験する地獄絵図が...そしてその3日後の8月9日には長崎で...!! 

1945年8月6日午前8時15分過ぎ。広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」機内はパニックに陥っていた。せん光、衝撃波で激しく揺れる機体。窓から広島市街を見た搭乗員は「見ろ、見ろ」と絶叫した。きのこ雲は数分間のうちに上空約1・5キロに達した。後日、ある搭乗員は「地獄を見ているようだった」「大釜の中でタールが沸騰しているようだった」と表現。「理解を超えている。われわれは一体、何人を殺したんだ」。搭乗員の一人は震える手で報告書にこう書いた(05年08月06日付『毎日新聞』)。

 2005年7月にAP通信と共同通信が日米で行った世論調査によると、米国人では原爆投下を「肯定する」と回答したのは48%と、「否定」の46%をわずかに上回る。一方で「戦争の早期終結のため避けられなかった」との回答は米国で60%、日本で35%。逆に「必要なかった」は米国39%、日本63%だった。 

 

安芸の宮島

  干潮の全貌 第3段  本殿の紹介  

   2009.9.27ブログ 安芸の宮島 巌島神社 干潮 鳥居の地面からの姿 貴重な画像

     の続きです・本殿の紹介

 

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世界遺産 入り口

 

世界文化遺産 の木の看板

 

この廊下は、廻廊(かいろう) といいます

廻廊は幅4m、長さは約275m。床板の間に目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしています。

 

 

 

 

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 朱色の本殿は、あでやかの中に厳かさがあります。

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すべての、建物には水がなく、なんか寂しい景色でしょ 

五重塔はすごく、存在感があります

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五重塔(ごじゅうのとう)《重要文化財》

千畳閣の隣に建つ五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい塔です。高さは27.6m。応永14年(1407年)に建立されたものと伝えられています。内部は完全な唐様で、一般の見学はできませんが、内陣天井に龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、裏には白衣観音像などが極彩色で描かれています。塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。またこの五重塔が建つ塔の岡は、厳島合戦で陶軍が陣を構えたと伝えられています。

 

 

 

海に浮かぶと、優雅なんですが・・ 

 

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 ここが、床から地面についてる、小さな柱になってます

 

 

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 能舞台もあります。 

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能舞台(のうぶたい)《重要文化財・江戸時代》

 

国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台。現在、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの1つでもあります。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演がその始まりとされ、慶長10年(1605年)には福島正則が常設の能舞台を寄進。現在の舞台と橋掛及び楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680年)のことです。この能舞台は海上にあるため通常は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕(かめ)がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっているのが特徴。春の桃花祭神能がこの舞台で演じられるほか、茶道表千家と裏千家家元が隔年交互に執り行う献茶祭ではここでお茶が点てられ御神前に献じられます。

 

 

 

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平舞台(ひらぶたい)《国宝・平安時代》

寝殿造りの庭にあたる部分で、広さは167.6坪(約553平方メートル)。安元2年(1176年)、平氏一門が社参して千僧供養が行われた際、社殿の前方に仮廊を設けたという記録があり、こうした仮廊が常設となったものともいわれます。前方には火焼前(ひたさき)と呼ばれる突き出た箇所があり、管絃祭の出御・還御はここから行われます。また他の社殿の束柱は木造ですが、この平舞台を支えるのは、毛利元就によって寄進されたと伝えられる赤間石の柱。火焼前分と合わせると239本あります

 

 

 

 

 

 

 

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高舞台(たかぶたい)《国宝・平安時代》

本社祓殿前にある、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらし前後に階段をつけた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられます。舞楽の舞台としては最小のもの。現在の舞台は天文15年(1546年)、棚守房顕によって作られたもので、当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような作り付け構造になったと考えられています。

 

 

 

 

 

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この、お宮は大鳥居を背に建てられてます

 

本殿を守る、お宮となります

 

 

 

 

 

 

  

 右を見ても、左を見ても、海はどもにありません 

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 わたる、橋すら・・・水が名の野です

 

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反橋(そりばし)《重要文化財》

かつては重要な祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったことから別名・勅使橋(ちょくしばし)とも呼ばれました。現在の橋は、弘治3年(1557年)に毛利元就・隆元父子によって再建されたもので、擬宝珠の一つに刻銘が残っています。

 

 

 

本殿から見る、大鳥居になります。

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                   大鳥居からにた、本殿となります。 

 

P1110139.jpg  本殿(ほんでん)《国宝・平安時代》

繊細かつ華麗な切妻両流造りで、正面には緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がはめられた本殿には、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られています。屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れた寝殿造りならではの様式が特徴です。現在の本殿は元亀2年(1571年)、毛利元就によって改築されたものです。

 

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  大鳥居 おおとりい

 本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。

 

 

参考資料・・人と神々が共に生きる島・・・HPより転記

 

2009.9.1

 

安芸の宮島

  巌島神社

    幻想的な神社です・・・

     日本の象徴の富士山とならぶ、海に浮かぶ朱色の鳥居と神社本殿・・・

 

昔から「神の島」として、崇められてきた、瀬戸内海に浮かぶ歴史と浪漫の島

        巌島神社の雅やかな社殿や朱塗りの大鳥居が、

              紺青の海と島に自然に見事にマッチしており、

                 平安朝の優雅さを醸し出してます・

 

  

 

  前回に訪れたときは、本当にそのものでした・・・

    が、今回は「アレレレ・・・」と、思う光景です。

 

幻想的な・・・海に浮かぶ、神々の国「日本」のイメージは???

 まったく考えてみいなかった・・・ソノ光景なのです

   しばしビックリやら、ガッカリやら・・・でしたが、

    心を切り替えて、ブログの記者になったつもりで・・・

     誠の姿、安芸の宮島  巌島神社 大鳥居の紹介です

       非常に貴重な写真です・・・・

         きっと、この写真は観光を売りにしているポスターには絶対に写せない姿ですが

           貴重な姿なので、シッカリ 沢山 写真を紹介します・・・

 

第一弾  大鳥居の紹介

 

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                      想像外な光景です・・・

                勿論、大鳥居の下まで、歩いていきました・・・・

           この、建築はきっと、引き潮の短い時間に、作業をしたのかな??

          満潮になったら、木がフワフワと浮いて、どんなに作業が困難だったのかな??

        そんな、こんなを想像しながら・・・拝観してましたね・・・

 

では、連続写真を見てくださいね・・・

 

 

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ずーーと、砂地になってます 海の匂いがプンプンしてきます

  砂浜には、小さな生き物が動いてますよ・・・・

 

        船の上から眺めている、大鳥居が、何と頭上にあります。

           何ともいえない、面持ちになってきました・・・・・

              自然のすごさをと、自然のいたずらに感激です・・

 

  干潮の時間 これから約1時間は続きます・・

 

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柱の、色が変わってるでしょ・・・

  白くなってる部分までが、通常は水中の沈んでます・・

       その、柱の大きく太いこと・・・

          柱の、水中に沈む部分は鉄板のようなもので、囲まれてます

            勿論、朱色に塗られてましたが

 

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人間の大きさと、柱の太さを比べたら一目瞭然・・・デッカイ・・・

 

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  ここが、真下になります

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                                         海から、撮影した本殿です・・・

2009.9.11紹介  安芸の宮島 巌島神社 狛犬に性別のシンボル 必見画像紹介

  なかなか、面白発券の内容です

 

 

★文化遺産「巌島神社」 ウンチク★

厳島神社は、広島県の厳島(宮島)にある、神社です。日本全国に約500社ある厳島神社の総本社で、1996年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

「世界遺産条約」の目的は、普遍的な価値を有するかけがえのない人類の遺産である文化財や自然を、破壊から守り、保護し、次世代に残していくために、世界中の人たちの国際協力を推進することにあった。この「世界遺産条約」のもっとも特徴的なことは、それまで相反するものとされてきた動植物をふくむ自然と文化とを、じつは密接な関係があり、ともに保護することが大切と見なした点にある。自然と文化とは対立関係にあるのではなく、お互いに補完関係にあるという考え方を提唱している。実際、人類が創り出した歴史的建造物は、周囲の自然とよく調和し、また、各国の自然景観には、古代からの民族の痕跡が残されていることが多い。

 

 

「巌島神社」は、登録の基準として、基準1,2,4,6を満たしていると評価されました:

基準1:人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
基準2:ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
基準4:人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
基準6:顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。 (ユネスコ世界遺産 講談社より)

厳島神社は、宗像三女神を祀ります。三女神のひとり、市杵島姫命は、神仏習合時代に弁才天と習合したことから、厳島神社は、江ノ島、竹生島とともに日本三弁天のひとつとされています。

厳島神社がある、厳島(宮島)は、「安芸の宮島」と呼ばれ、
宮城県の「松島」、京都府の「天橋立」と並び、日本三景の1つと呼ばれます。安芸の宮島は平家納経で有名です。厳島神社の平舞台は、大阪天王寺の四天王寺の石舞台、同じく大阪住吉区の住吉大社の石舞台と共に、「日本三舞台」の1つにもなっています。

 

厳島神社は非常に台風の影響を受け易く、台風が来るたびに何らかの被害をこうむっています。最近では、2004年の台風18号で国宝附指定の「左楽房」が倒壊しました。さらに最近では、高潮の被害も報告されています。

 

 

台風の被害を修復に行った会社の紹介

増岡組:安時代から続く建築物も、平成の建築物も手がけてる 

1991年に宮島を襲った台風19号。
国宝厳島神社本社、能舞台、大鳥居、五重塔などの重要文化財に大きな爪跡を残した修復に参加

重要文化財の復旧や補修を長年にわたり担当してきた私たち。その技術を高く評価されて任されたのだ

平安時代の歴史的な建築手法に基づきつつ、現代の技術を組み合わせるという高度な復旧作業。建造当時の資材で使用できるものを選りすぐり、新たな資材を調達する。そうして3ヶ月後、参拝が可能になるまでに修復を完了させた。 

 

神社に、狛犬が鳥居が必ず・・見かけます

  狛犬は頭から角が出ています。

   獅子は、角がないのです・・・・

   大陸・シルクロードとともに中国 

     中国から仏教とともに、日本に伝わってきたのです・・・

 

  何気に見てるのですが、

    一般的に、左側に、口が開いてますけて

           右側には口が閉まってます

             

 その意味には、一般的に知られてることは

     口を開いたものを「阿形(あぎょう)」といい

            閉じたものを「吽形(うんぎょう)」といいます

             ↓   ↓

      「阿形(あぎょう)」で、日本の五十音が「あ」

        「吽形(うんぎょう)」、日本の五十音で「ん」で終わります

             ↓   ↓

            宇宙のすべてもの包含する意味があります。  

 

 

そこで、安芸の宮島・・

       「巌島神社」の紹介です・・・・

 

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  鹿がおで迎えしてくれますよ・・・・・・・・・・・

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とても、人懐っこいですよ・・

 

かわいーー

 

お札が大好きなので、食べられないようにしないとね

 

 

 

少し歩いていくと

 

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まだまだ、歩いていきます

 

次に、2対目の狛犬を発見

 

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いよいよ

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世界文化遺産  登録

 

   朱色がまぶしいばかりの建物

 

 

廊下を、歩き続けます

 

 

 

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撮影時には、引き潮でなんと・・・

  こんな姿です・・・

 

海に浮かぶと、幻想的ですが・・

 

   この状態もなかなか興味深いです

鏡の池にも、水がないです

 

 

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 ズーート奥まで歩きます

 

 

 

 

 

 

 

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能舞台などがあります

 

 

 

 

 

 

 

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 建物全体が、海の大きな鳥居に向かってますが、このお宮は何故か海の鳥居に背を向けてます

 

「巌島神社」本堂を、お守りしてるそうです

 

なるほどね・・・

 

 

ここまで、2対の狛犬がいましたヨネ・・

    ここからが狛犬(獅子)の紹介

         能舞台などがあるところに、狛犬が一対いますよ

 

 この狛犬がシンボルをつけてます

  何か・・恥ずかしいような感じですが・・貴重なので掲載します

 

バスガイドさんいわく、「スゴーックめずらしそうです」

  おそれ多いことですが・・・  ごめんなさいね・・

 

        男の狛犬                              女の狛犬

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光景はさすが・・・巌島神社の、美しさです・・・

 

この写真では、判明しづらいので・・・・

  ドアップにします・・・

  

                      こちらが、男性の狛犬です  

                               わかりますか???

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                  こちらが、女性の獅子です

                                   判りますか???

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       判りましたか??   確かに、ちゃんとありますよ・・・

  左側の、口が開いる「阿形(あぎょう)」が、男の子

           右側には口が閉まっる「吽形(うんぎょう)」が、女の子です

             

                        是非、ご自分の目でご確認くださいね・・・・

 沖縄のシーザーを思い起こしますよね

沖縄の観光で

   ガイドさんの話では、口を開けているのは福を呼び込む(吸い込む!?)

     口を閉じている方はその幸福が出ていかないようにしっかり口を閉じている・・そんなないようでした

 

 

狛犬のウンチク

狛犬は神社の魔除けと考えられ、入り口、または拝殿(神殿)の前に左右一対で置かれます。

狛犬の起源はインドや中央アジアに棲息していたライオンであるといわれます。

それが朝鮮の高麗(こま)を経て日本に伝えられたことから、「狛犬(こまいぬ/高麗犬)」と呼ばれるようになったといわれています。
日本に伝えられた当時は、「左に獅子、右に狛犬」を一対としていたようですが、現在では獅子と狛犬の違いはなくなり、両方とも「狛犬」と呼ばれるようになりました。

 

日本で最初に狛犬が置かれたのは清涼殿だとされ、四方を帳によって囲まれた天皇の御座の南北に置かれ、左が獅子だったという記録が残っています。枕草子にも狛犬の記述が残っていることから、平安中期にはすでに狛犬が魔除けとして使われていたことがわかっています。
 そして、狛犬が一般の神社に置かれるようになったのは平安時代末期からだそうで、はじめは神殿の扉の前、後に拝殿の前、その後に鳥居の前という具合に、時代とともに神社の奥の方から入り口の方へと、狛犬の置かれる場所が移ってきたようです。 

 

 

狛犬は一般的に、右に口を開いた「阿形(あぎょう」、左に口を閉じた「吽形(んぎょう」が配置されますが、例外もあるようです。 
 また、玉を足元に置いていたり、子供の狛犬をあやしている狛犬もあります。これらはそれぞれ「子取り」、「玉取り」と呼ばれ、一対となっているのが一般的です。

 

神社の境内で狛犬以外の"動物"を目にすることがあります。例えば、お稲荷さんのキツネや、天神さまのウシなど。これらは俗に"神の使い"といわれ、「眷属(けんぞく)」と呼ばれています。
 古来、日本では、神は目に見えない存在とされてきました。しかし、神の遣わしたものは見ることができ、それが神意を表わすという思想から「眷属」が生まれたのではないかといわれています。
 その神社の眷属が決定した由来は、神話によるものや、故事に由来するもの、鎮座地近くに住む動物や語呂合わせなど、さまざまです。

   

   (HPより抜粋  参考文献:岡田米夫「日本史小百科1 神社」近藤出版社
                     外山晴彦・『サライ』編集部編「神社の見方」小学館)



 

森鴎外

 

鴎外の生まれは、石見国鹿足郡津和野町田村横堀。1862年(文久2年)1月19日に誕生。

そうなのです・・・

森鴎外(本名・森林太郎)は文久2年(1862)1月19日石見国津和野に、津和野藩医 森静泰 峰子の長男としてこの家に生れ、明治5年(1872)に10歳で上京するまでここで過ごした。

 

その、幼少の頃に、薬局の伊藤博石堂に、父の処方した薬を取りに出かけたのです・・・

 

その、

 

森鴎外の生家は伊藤家が買い取り、津和野市に寄贈して、現在は重要文化財として保管されているのです。

 

昨日(一等丸 伊藤博石堂)の、当主が買い求め、大切に保存していたのです

 

鴎外の生家。 復元して公開されています。
 森家は、代々、津和野藩主亀井侯の典医を務めていたので、く調剤室も残っています

 

     4畳半の彼の勉強部屋

 

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 角にある家具(棚は)

   父、森静泰の使用した薬箱

 

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左から、

 父の森静男(静泰)

 

中央

 母 森ミネ(通称 峰子)

 

右は、

 森鴎外(本名 林太郎)

 

 

 

 

 

 

 

               森鴎外先生詩碑

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この碑は、鴎外の扣鈕(ぼたん)から佐藤春夫の筆により建立された。

 

  日露戦争中、激戦となった南山の戦いで無くしたカフスボタンを惜しむ詩。

 

    詩碑の題字は漢詩人 土屋竹雨(本名 久素 秋田出身)

 

 

「舞姫」の詩---森 鴎外

 

             扣 鈕 (ぼたん)

           南山の  たたかいの日に
           袖口の  こがねのぼたん
           ひとつおとしつ
           その扣鈕(ぼたん)惜し

           べるりんの  都大路の
           ぱっさあじゅ 電灯あおき
           店にて買いぬ
           はたとせまえに

           えぽれっと  かがやきし友
           こがね髪   ゆらぎし少女(おとめ)
           はや老いにけん
           死にもやしけん

 

           はたとせの  身のうきしずみ
           よろこびも  かなしびも知る
           袖のぼたんよ
           かたはとなりぬ

           ますらおの  玉と砕けし
           ももちたり  それも惜しけど
           こも惜し扣鈕
           身に添ふ扣鈕

 

 

      注釈 20年前、ベルリンで買ったコートの釦を、日露戦争の戦場でなくしてしまった。

           そのころまだ若かった、肩章(えぽれっと) を付けていた友人の将校も、

                 黄金色の髪をなびかせたあの少女も、

                     今ではもう歳老いたか、亡くなったかもしれない。

          20年前の想い出を知るぼたんを戦場で失ってしまった。この戦争で
              多くの人命を失ったことは惜しいことだが、そのときにこのぼたんを
                   失ったことは、自分の青春を失った思いで、とても惜しい

 

  

 

津和野には、森鴎外の生家があります。

その、森鴎外の父は開業医をしており、

 森林太郎(鴎外本名)は小さい頃、父の処方箋を伊藤博石堂(薬局)にもって行き、薬を処方してもらったそうです。

 その、伊藤博石堂の一等丸の紹介です。

      森鴎外先生が軍医部長として日露の戦いの出征の時に、

         五代目伊藤利兵衛が選別に差し上げたところ、

            その効能が迅速なことに大変喜ばれて、その後愛用されたそうです

 

 

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陽があたり、ショーケースが反射してしまい残念・・・・

伊藤薬局の大きな木製看板・・

ショーケース右側に伊沢蘭奢という女優のポスターが飾られている。

「女優X・・・・」、テレビ化された作品です。

    六代目の伊藤利兵衛の妻だったシゲさんが、色々とある苦悩の人生を経て、

          離婚後、女優になった話なのです

 

今回、伊藤博石堂(薬局)の接客をしてくださった店主は、八代目伊藤利兵衛さんですから、おばあさんになるんだよね・・・・

 

早速、本を購入しました。

  「女優Xー 伊澤蘭奢の生涯

 

早速、一等丸の紹介です

 

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漢方薬なのです。

 

薬事法で、第二種に分類されてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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山崎光男著 「日本の名薬」 の、なんと第1項に紹介されてます。

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39の名薬が紹介されていますが 

10ページに、津和野のタカツヤ伊藤薬局で

作られている一等丸が紹介されています。


森鴎外も愛用した胃腸薬  一等丸

 

  

 

 

 

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棚には、一等丸の袋がズラリー・・・

 

   一等丸は銘薬なのです

 

    看板薬ですよね

 

 

 

 

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中国 北京中医学院 一等丸   とあります

   歴史を感じるね・・・・

 

旅行で食べすぎ・呑みすぎで体調が・・・

  歩くのも、調子が悪くて苦しい・・・

 

ホテルで苦しんでしまいました

二日酔いかな???

 そこで、思い出したのです・・・一等丸のこと

 

 

P1100189.jpg  10粒服用したら・・

  10分くらいで効いてきた

  

すごい・・・

 

ガイドさんが、胃痙攣(いけいれん)になったr、20粒くらい一気に飲めば、10分ほどで嘘のように楽になるそうです

 

 

 

 そもそも、タカツヤ伊藤薬局は 

一等丸の製造元である高津屋伊藤博石堂の創業は寛政10年(1798)で、薬種問屋だった。

伊藤博石堂は代々、伊藤利兵衛を名乗り、現在は八代目です。


 一等丸は、五代目利兵衛が創始した胃腸薬です。

   明治29年(1896)に正式認可が下りて本格的な製造が開始されていた。

     五代目利兵衛は、森鴎外の3歳上で、森家(武家)と伊藤家(町家)は、古くから親交があったのです。 

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一等丸の袋も箱もレトロです

効能・効果


食滞(食べすぎ、飲みすぎ)、しぶり腹(おなかがキリキリする)、食傷(食あたり)、下痢、宿酔(胸やけ、吐き気)疝癪(さしこみ、冷え痛)船車酔、胃腸虚弱である。
 一等丸は急性胃腸疾患のときは、大人で1回、20粒を頓服(一度に飲む)する。薬の趣意書には「効能迅速な点」が鴎外に喜ばれ、「以後御愛用戴きました」とある。
 慢性胃腸疾患には、大人、1回、10粒を一日3回、毎食前に水または白湯で服用。

 

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裏面の効能書きや成分が記述されている。
当薬(とうやく)、千瓱(ミリグラム)
黄蓮(おうれん)、五百瓱
芦薈(あろえ)、 二百瓱
亜仙薬(あせんやく)、 一千瓱
胡椒(こしょう)、 一千瓱
龍脳(りゅうのう)、 一百瓱
小茴香(しょうういきょう)、 三百瓱 
木香(もっこう)、一千瓱
丁字(ちょうじ)、四百瓱
甘草(かんぞう)、三百瓱

 

 

 

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P1100166.jpg内モンゴル牛角櫛

 

  静電気が起こりにくい櫛

   1個1050円です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 昔、薬をつぶす道具

 上の左⇒中国

   上の右⇒韓国

     左側 ⇒日本

         の道具です

 

 

 

 

 

 

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古くからの、薬の道具が

  お店の窓に展示されてます

 

 

 

 

 

 

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「新日本永代蔵 」船橋晴雄著書  企業永続の法則 

20ページに、タカツヤ伊藤博石堂  

        「本の虫」が継ぐ、鴎外ゆかりの漢方薬局                     

 

 

 

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  女優X 伊澤蘭奢の生涯

      (いざわ らんじゃのしょうがい)

     

    夏樹静子 著書

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ)ウンチク

 

伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は日本の新劇女優。

島根県出身。本名、三浦シゲ。
島根県津和野に紙問屋の娘として生まれる。東京の日本文学学校卒業後、津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐ。新婚時代は夫と東京に住み、その後一子をもうけ津和野で暮らす。なお、東京時代には、近所に住んでいた、夫の遠縁でまだ学生であった、後の徳川夢声に慕われ、二人の間にはロマンスの噂もあった。
しかし、東京で観た松井須磨子の舞台を忘れかね、演劇を目指すため意を決し離婚。6歳の息子(後の作家、伊藤佐喜雄)を婚家に残し、29歳で上京した。
上山草人主宰の近代劇協会に加わり、舞台女優として歩み始める。しかし、1918年の島村抱月と松井須磨子の死を機に、畑中蓼坡 主宰の日本新劇協会へ参加する。松井亡き後の新劇界をトップスターとして10年もの間に渡って支えた。
1923年には松竹蒲田やマキノ東京と契約し、「三浦しげ子」名義で映画にも出演する。郷里に残した息子に自らを知らしめる目的だった。
1928年、舞台『マダム X』が大当たりする。名実共に大女優の仲間入りを果たすが、同年脳出血で死去、満38歳の若さで帰らぬ人となる。
著書・
素裸な自画像

 

 

 津和野 カトリック教会は、すごく珍しいのです・・・

登録年月日:平成8年12月20日  登録有形文化財(建造物)
 
 長崎浦上のキリシタン信徒の殉教地として知られる
   
    津和野にビリオン神父によって創設されたもので,現在の建物は昭和4年の再建である。
 
        木造平屋建の単塔式のゴシック様式になり,
  
            簡潔な図柄のスデンドグラスのある教会として親しまれています。
 
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 朝のミサも終わり、管理人のおじさんが教会内の写真撮影を許可してくれました。

  

   室内は、板の床に普通は椅子が並んでるのですが・・・

        何と、畳が敷きつめてあります。

    

       畳に、正座でミサを受けます・・・

 

 

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カトリック教会です。

ステンドグラスもあり、

祭壇もありますよ・・・

 

畳・・・・

  ここに、歴史を感じます

 

 

 

隣に、展示室もあります。

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キリスト教徒弾圧の

 乙女峠の展示室があります

 

 

 

 

 

 

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乙女峠は、明治維新後のキリシタン禁止令により改宗を迫られた長崎浦上のキリスト教徒たち(153名)が、幽閉収容された場所。

当時、津和野藩は神道研究で有名で、当主亀井茲監が神道による教道教化に相当な自信を抱いていたため、幕府は浦上の信徒の指導者たちをこの地に預けたのだという。

 

他にも、鹿児島・萩・名古屋等の20ヶ所に、約3400人の信徒が預けられた。

 当初は津和野藩出身の国学者 福羽美静の指導で改宗の試みが行われたが効果がなく、藩は方針を転換し、拷問による棄教を迫り始めたのだという。

 乙女峠で迫害を受け殉教した信徒は、明治6年の帰国までに36名。中には子どもの姿もあった。

 マリア聖堂は、その鎮魂のため、津和野教会神父パウロ・ネーベル氏(別名岡崎氏)によって昭和26年に建立された。

 

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絵ガラスの下段に書かれてる文字の抜粋

 

 

慶応元年6月17日

 

 津和野乙女峠光淋寺に収容された

     キリスト者達は連日改宗説得を受ける

 

慶応元年(1865)まで、

 役250年間かくれていたキリシタンが

    長崎大浦天主堂で発見され

     明治元年(1868)より、

       おおよそ3500人が流罪にされた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P1100116.jpg 乙女峠 キリシタン

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当時の水瓶

 

   乙女峠にて出土されたもの

 

 

 

 

 

 

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白い紙に書かれてる内容は

   

  門並ぶ街に突塔

    天を突く色散りばめたステンドグラス

 

 

ステンドグラスの、下の文字は

 

   5才のもりちゃんは、お菓子の誘惑に

        「天国の味はもっとおいしい」 と答える

 

 

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乙女峠の使徒

  岡崎祐次郎神父 

   (パウロ・ネーベル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平和を祈り(マッシンジの聖)フランススコ

 

神よ、わたしたちをあなたの平和の

 

 

 

 

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岡崎祐次郎 (パウロ・ネーベル)神父

 

 

 

 

 

M29.3.29   生出(ドイツ・ロートリンゲン州 フャルスブルグ市)

T4       世界第一次大戦出征 ドイツ帝国軍兵士として聖地エルザレム、ベトレヘムで戦場

S2.8.18    司祭叙階(オランダ)

S4        来日

S21.10.23  津和野カトリkック教会主任神父任命

S22.11.2   初めての殉教者記念式4人

S24       乙女広場つくり

S26.5.13    記念聖堂(マリア堂)完成

S27.5.11    最初の乙女峠まつり

S28      もとの氷漬の池と昔の井戸の掘り直し

S37.7.24   ドイツから帰化

S43.5.3    殉教百年記念碑完成

S51.8.2    帰天(どいつ・ムーンスター市)

 

 

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左の立て札の文字は

 

 

 

 

 

 

この聖堂は神のより天いなら絵置こうと乙女峠36人の殉教者の遺徳をしのびたたえるため1931年建てられました。長崎西坂の日本二十六聖人殉教者の得護のもととおります。

建築様式は新ゴチックとして正面レリープ(紋)はフランシスコ・ザビエルの属していた修道会が十六世紀より使っている紋をかたどったもの。

堂内の中央祭壇は大浦天主堂のものとおなじ様式です。

そして周囲の絵は西暦紀元はじめのキリストのエルサレムにおける受難の時の十字架の道行に十四留(場)がえがかれています

乙女峠は三十六人の殉教者に対する信心はビリオン神父(ネーベル)が25有年熱心に力を書され、乙女峠記念碑を盡てました

この場所は明示のはじめに立てられた

旧藩時代の町年寄堀家の邸であって殿町の通りに向かっている格子窓は茶室の一部でした。現在まで庭園の他のほとりには西郷道郷、乃木希典大将の手植えの記念樹があります。

 

 


キリシタン殉教地「乙女峠」
慶応元年(1865) 長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数のものが、当時フランス寺とよばれて
日本人は立ち入り禁止であった今の大浦天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます」
との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。
徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受けとめたのです。
喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。
鹿児島、萩、名古屋など(
岡山県にも)20ヶ所が選ばれ津和野も加えれました。

キリシタンたちは厳しく改宗を責められましたが、信仰は厚くたやすく棄教させることははできず拷問(減食、氷のはる池に、火あぶりなど)による改宗を行なったのです。年齢、性別をとわず殉教者をだしたのですが 五つの女の子モリちゃんの記録も残っています。 
永井隆 著 「乙女峠」に詳しく記されています。

明治25年ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪差かに葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。
なお第2次大戦後、ネーベル神父(岡崎神父)は乙女峠に記念聖堂を建てそのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所と
なるように心をこめ、力をつくしました。彼が始めた乙女峠まつり(5月3日)は全国から集まった数千人の巡礼者によって
乙女峠の聖母マリア(記録をお読みください)と殉教者たちを讚えるお祝いになりました。
                   {一部を除き津和野カトリック教会 津和野乙女峠より}

 

 

萩・津和野・広島の旅行は

  写真満載・・で、整理に奮闘中・・・・

 

沢山の、面白い話もあります・・・

 

   今回は団体旅行で参加したのですが・・バスガイドさんがモノスゴーーク物知り・・

     メモ帳も、ぎっしりになりました・・・

 

 

 

津和野の、マンホールの写真紹介

 

津和野は、島根県ですよ・・・

 

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こんな、町並みです・・

 

この、町並みに

 

 

 

 

 

 

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瓦屋根の町並み・・・

 それから、鯉が描かれてます・・・

 

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鯉がいますよ

 

この鯉は、昔昔・・・

 

食料難なったときの非常食用に飼ったのですが、大きな災害・紛争も無かったので今日に至ってます

700匹の鯉がいるそうです

平均年齢は40歳

 高年齢の鯉は、100年生きてるようです 

おおきな金魚がいます

  金魚といっても、鯉と見間違うほどの大きさなのです

 

  ここで、鯉と金魚の見分け方は

    鯉にはヒゲがあります

    金魚には、ヒゲがないのです・・・・

       知ってましたか??

 

P1100185.jpg

 

 

ここにも、鯉がいる・・・

 と、近づいたら・・・

 

   なんと、偽物

    おもちゃ・置物の鯉でした

 

 

 

 

今回、津和野は2回目の訪問なのですが・・・

  ジックリと散策できたので、たっぷりとお知らせします・・・

    お楽しみに・・

 

    

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