旅行 中国・四国地方: 2009年10月アーカイブ

 アメリカ・オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞された

  また、広島長崎市が共同で20年夏季五輪の招致を検討すると表明した

     そして、本日は米国のジョン・ルース大使が広島平和記念公園に訪れた・・

 核兵器は、本当に世界から消えるのでしょうか??

    以前、美輪明宏さんのコンサートに行ったことがあります

     その中で、美輪明宏さんが「戦争の悲惨さ」切実に話されてました・・・

   被爆国 日本はもっと、もっと、発信したいのですが、管理人も含めて本当に被爆・原爆について真剣に向き合ってるのかと自問自答してしまいます。

   

(2009.9.1訪問)

 

    ここが、原爆の子(千羽鶴の塔) 佐々木子さんの像です

      折り鶴は、子さんが病気の回復を祈って、折っていた折鶴をモチーフにしてます

          

 

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建立年月日 

1958(昭和33)年55日(こどもの日)

 

 

建立者

広島平和をきずく児童・生徒の会

 

制作者

菊池一雄(当時・東京芸大教授)

この像は、禎子さんの旧友たちの

 

 心のこもった運動で建立されました

 

 

碑文

「これはぼくらの叫びです

   これは私たちの祈りです

     世界に平和をきずくための」

 

 

 

 

 

 

 バスガイドさんの説明は

 

 

  2歳で被爆した禎子さんは、とても、元気な明るい子供で、クラスでも人気者でした

  

  ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断されました。

 

    担任の先生から提案がありました。

 

    「みんなが毎日は病院にお見舞いにいけないが、

        行ける人がバラバラでお見舞いに行ったらどうだろうか?」

 

    そこで、竹組のお友達(クラスメート)達は、

        2人3人で毎日毎日いろんなお友達がお見舞いに行ってました。

    

    が、小学校も卒業して、中学校に入学し、竹組のクラスメイトはバラバラになり、

         いつしか貞子さんの病院のお見舞いに行く人はいなくなってました・

 

  そんな中、先生から「佐々木禎子さんは亡くなりました」と、報告を受けたそうです。

 

     病院で、回復を祈っの闘病生活の後、1955(昭和30)年1025日に短い生涯を終えました

 

 

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 禎子さんが亡くなり、子供達は自分達に何が出来るのか?

  と、考えました。

 何も出来なかった悔しさがあたのです。

  みんなで話し合いました

   「サダコちゃんのお墓をたてられないだろうか?

      近くにお墓があったら、毎日お参りできるから・・」

 

 同級生は立ち上がりました

  原爆野犠牲になった子供のために、平和記念公園に像を作ったらどうだろうか?

 

 

募金を集めるために、紙に自分達の気持ちを書いて印刷しました。

  当時、ガリ版という手法で印刷しました。

   なかなか、募金は集まりませんでした。

     あるとき、全国の小学校の校長先生の集会があったのです。

      その校長先生達にも、ガリ版印刷した紙を手渡ししたそうです・・・

       なかなか読んでもらえなかったのですが・・・

北海道の校長先生が、自宅に帰って手渡しされた紙を読んで、感銘をうけたのです。

  その校長先生が学校で話したり、校長間で話が伝わり次第に和が広がりました。

 

     全国の3100校以上の学校

      イギリスをはじめ世界9か国からの支援

        「建設に役立てて欲しい」と、多くの手紙と募金が集まったのです

 1957(昭和32)年1月、平和記念公園のなかに「原爆の子の像」を建設が正式に決まったのです

    像の完成は、佐々木禎子さんが亡くなって2年後の、1958(昭和33)年のこどもの日です

 

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三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)がある。(高さ9m)

 

像の下に置かれた石碑には、

  「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです

           世界に平和をきずくための」

            という碑文が刻まれている。

 

 

 

 

 

 

佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、

                                世界に平和を呼びかけること  

 

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 塔の内部には、少年少女たちの気持に感動した

  ノーベル物理学賞受賞者である

    湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」

  「地に空に平和」の文字が彫られた

     銅鐸を模した鐘がつられ、

      その下に金色の鶴がつるされ、

         風鈴式に音がでるようになっている。

 

2002(平成14)年4月には、「原爆の子の像」に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブース)が整備された 

 

 

 

 

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 広島平和記念資料館に展示 

     2歳のときに広島市に投下された 

       原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。

 

同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。

  1954年8月の検査では異常なかった。

    しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめました

(資料館の中のモニター画面です)

   ※資料館愛はフラッシュをたかなければ撮影は可能でした

 

1955年1月にシコリが おたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。

   病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ

         白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。

              募金のために子供達が書いた文面もありました。

 

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 禎子さんは  「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました 

鶴は次第に、ドンドン小さくなりました 

 

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 薬の、袋でも、折りました・・・なんと、悲しい鶴なのでしょうか・・

 

         鶴の姿に折られることのなかった   折りかけの鶴 です。。。

                        細かい鶴には針を使って折ったそうです

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闘病生活で折っていた

 佐々木 禎子さんが、 セロハンで折った鶴です。 

しかし、鶴は最後まで折られなかったのです・・・

 

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  佐々木禎子さんの折り鶴

現在の千羽折鶴は、病気回復・長寿などの願いがありますが、そのルーツは佐々木禎子さんの折り鶴が起源といわれてます

1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に23羽ずつ参列者に配られ、擱に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島へ宇和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われる。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。

 

 2009.09.01訪問

 

安芸の宮島

  観光は自由行動になりました

     自由時間後、再度 JR宮島口駅構内に集合

       駅から、遠くない距離でおいしい食事が希望なのですが・・

         はたして、そんなお店あるのかな?

 

   団体の予約の昼食は今回は頼まず、時間があるので何かおいしいご飯を求めて・・・・

 

    地元の人に伺ったら、

             「うえの の 穴子飯がいいよ・・

                    でもね・・・  まず混んでるからね・・・

                         ずっと、待つからね・・・・

                            場所はスグそこよ・・・」

 

     厳島神社のある広島県宮島の名物とのこと・・・

 

       とにかく・・・お店に直行・・・

          自由行動の時間では食べれないと観念しながらも、まず外観だけでも見たい・・

 

             うそ^^^  人がいません・・・

                

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     すいすい・・・   と、店内に入ってしまいます・・・・ 

 

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混雑してるときは、

うえのアナゴ飯のお店の隣の

「上野商店」の中で、順番を待ちます。

この酒屋さんの、二階に居酒屋があるそうです

「他人吉」という、居酒屋さん

昔の建物のまま、ゆったりとした面持ちのお店だそうですが・・・

 

手前に、木のロボットがいます。

 

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  この、ロボットが、2階のご案内係りとなってます

 

木製のロボットなのです・・・  面白いな・・

表通りには、玄関がないので、このロボットが目印

 

以前のお住まいを

     そのまま使ってるそうです

今回は、入れませんが・・

  いつか、また・・・の再訪を楽しみに・・

 

 

 

 

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 まずは、うえのの入り口にある用紙に

      名前を記入・・・・

  それから、

   店の外とか、上野商店の店内で

        待機してますよ・・

 

 

 

 

 

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 店の前には、ショーケースあります

  混雑してないので、ゆっくり見るまもなく・・

 

    さすが・・・

      しゃもじが大きい・・・

 

   宮島にはシャモジ・・

     その関連は・・後日、ご紹介します

 

 

うえのの「駅弁」  アナゴ弁当が陳列 

 

 

うわさでは、冷めても絶品な穴子弁当だそうです・・

  これもまた、次回のお楽しみに・・・

    旅行は、胃袋が大きくないと・・・楽しみも半減かな??

     胃の動きを活発にしてくれるためにも、津和野で買った一等丸を飲んでいかなくては・・

 

 店内は、昔ながら・・・・

  観光客ヨ路も、地元の方が多いようです・・・

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 瀬戸の穴子は、白焼きがオススメですが・・・

    今日は、「あなごめし」を注文

      待つこと・・・少し・・・・

 

   現在は、 十三代目 上野純一氏

       この発祥は 十代目 上野他人吉氏 です。        

 

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 これが、あなごめし・・・・

       うなぎのどんぶりみたいな感じですが・・・・

           容器は、木のくりぬきを使用してます

                    赤だしと香の物がついてます 

 

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 てりが、ピカピカ・・・・・・・・・・・・    しょうがもついてます

                                     

   

 鰻のように、タレを頼みました・・・

 

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アレレ・・・これだけ??

  と、思ってしまいましたが・・

 

    食べて納得・・・

 

 

 

 

 

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ご飯は、鰻のように白米ではありません

  

   炊き込みご飯となってます・・・  

 

    少々薄い茶色になってます 

 

            味は、薄味

ご飯に味があるから、タレは少なめ・・納得

 

 店内は、かなりすいてましたが・・・  食べ終わる頃には・・・待ちのお客さまで大混雑になりました

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  時間帯が、超ラッキー   ・・・

    宮島の名物を賞味できました・・・良かったな・・・

       

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 山本益博の「考える舌」

  いわゆる・・

 

 山本益博(やまもとますひろ)さんは、

  食べ歩きの「料理評論家」

   料理はしない、おいしい料理を紹介する著者なのです

その、著書のなかに紹介されてますヨ

 

 

 

★ あなごめし ウンチク★

 あなごめし」は、上野家十代目他人吉(たにきち)が、宮嶋駅(明治30年開通)の駅売弁当として、 販売したのがはじまり。

他人吉翁は明治の中頃、宮島でお米の商いをしてました。
その後、機会があって、 宮島口の駅前参道に茶店を開業、その茶店を起点に駅弁あなごめしは誕生いたしました。 あなごがたくさん獲れるこの宮島近海では、昔から地元の料理としてあなごどんぶりがございました。茶店にも一品として旅人を楽しませていたことでしょう。江戸時代の芸藩通史にも当地の穴子の美味しさを書き伝えております。

他人吉翁は、この宮島でもてなされていたであろう「あなごどんぶり」の白飯を工夫し、あなごのあらで炊き込んだ醤油味飯を考え出しました。脂ののったあなごのあらで炊き込んだ飯はこくがあり、大変評判となりました。当時開通したばかりの宮嶋駅で駅弁を販売することを考えていた翁は、さっそくこのめしにあなごをびっしりとしきつめた「あなごめし」を名物として販売することにしたのです。以来、山陽本線では評判となりましたが、現在のように四国や岡山、隣の徳山などの駅弁として販売をはじめたのはここ二十年のこと。駅弁「あなごめし」の名前は広く使われるようになってゆきました。今は宮島の名物として復活し、個々に特徴とこだわりを持った美味しい穴子丼が出来上がりました。戦後、私の母と母を助け守り続けた多くのスタッフのひたむきな努力によって今日に至っております。

 

「あなごどんぶり、あなご弁当」は数ありますが、「あなごめし」は両親の守った上野他人吉の味が一番と信じて頑張っております。
また近年の不漁、それにより漁師さんの世代交代が出来ず、当地における日々の集荷が限られることになってしまいました。百年を経て、新たな暖簾をかけるつもりで取り組む覚悟です。永年穴子飯を愛しておられることを強く心に刻みこれまでの味を知るお客様と共にその味を受け継いでおきたいと思っています。何卒お導き下さいますよう宜しくお願い致します。(十三代目 上野純一氏の言葉)

 

他人吉開業で迎える1999年の冬、そして2000年の春・・・あなごめし弁当うえのはおかげさまで100年を迎えました。

他人吉(たにきち)は宮嶋駅(明治30年開通)の駅売り弁当として、あなごめし弁当を販売した初代の名前です。他人吉翁が明治の中頃宮島でお米を販売したのが商いの始めと聞いています。

その後、機会があって宮島口の駅前参道に茶店を開業して後、駅弁当「あなごめし」が誕生しました。以来厳島とその近海の豊かな海に恵まれ美味しいあなごがたくさん漁れたことで今日まで変わらぬ味をお届けすることができました。

こうして100年を迎えられるのも永年あなごめし弁当に格別のご贔屓を下さいましたお客様のおかげです。
一時期、地物にこだわりすぎるあまり、質の悪い地あなごまで仕入れざるおえない状況になったこともございます。
その経験をふまえ、そのようなことにならないように日々の仕入においては地物の良いものと地物に優るとも劣らない味のあなごを広く求め、吟味して用いることで、ご期待に副えるあなごめし弁当をご提供できますよう努めております。どうぞ変わらぬご愛顧と御指導も合わせてくださいますよう宜しくお願い申し上げます。(あなごめし うえの HPより転記)

 

 

2009.9.1

 「世界遺産登録」多くの史跡があります

     日本では、法隆寺地域の仏教建造物

           厳島神社  

                 

             白川郷・五箇山の合掌造り集落  などがあります

 

 その中で、なんて悲劇的な「世界遺産』なのでしょうか・・・ 

   

       「負の世界遺産」 =広島の原爆ドーム

 

           二度と同じような悲劇が起こらないように・・戒めや願いが込められてます

 

               「負の世界遺産」 の、厳密な定義は無いのですが・・・

                  

                  負の世界遺産・・・辛く悲しい・・人間の愚かさが引き起こしたもの

 

          

          1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、原爆投下   

           

 

バスガイドさんの説明は

 

   「あえて、広島・長崎には原爆を投下する予定があったので、

 

       空襲の拠点からはずしたのです・・その理由は、

 

          市街地が空襲で破壊されると、原爆投下のポイントが定まらないからです。

 

                 広島は相生橋のTの文字を目標にしたのです・・・」        

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原爆ドーム

 

広島平和記念公園

 からの 

   写真です

 

 

 

 

 

 

   原爆ドーム内部に立ち入ることはできません。

             入場できる施設ではありませんので、外からの見学になります 

  

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1996年(平成8年)12月、

 

ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、

 

核兵器の惨禍を伝える建築物として

 

世界文化遺産に登録されました。

 

 

        指定範囲


 

原爆ドームの所在する地域/約0.39ヘクタール

 

 

原爆が投下される前は...

 

 

  

 

原爆ドームは、

 

1915年(大正4年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられました。

 

広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。

 

設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でしたが、

 

 その後「広島県商品陳列所」、1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」に改称されています。

 

設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏。

 

構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。

 

  全体は3階建で、正面中央部分に5階建の階段室、

 

  その上に銅板の楕円形ドームがのったモダンなものでした。

 

     当時は、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、

 

       川面に映えるモダンな美しさとあいまって広島名所の一つに数えられていました。

 

 

 

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ドーム鉄骨部分がむき出しの残骸と化し

 

 いつからともなく市民の間で

 

   「原爆ドーム」と

 

     呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

■何故原爆は投下されたのか?■

米軍による空襲を受けていない広島、小倉、長崎、新潟が原爆投下の候補に挙げられ、作戦実行の1945(昭和20)年8月6日、攻撃の第一目標は晴天の広島に決定。午前8時15分、高度9600mの米軍機エノラ・ゲイから重さ4tの原子爆弾が照準点の相生橋に投下された。目標はわずかにそれ、島病院(現在の島外科)の上空約600mで炸裂し、爆発にともなってキノコ雲が発生。熱風・爆風・放射能の脅威が約35万人と都市を襲い、爆心地周辺の地表温度は4000にも達したのです。

 

■ 世界遺産までのあゆみ■

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約600メートルのところです。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死しています。ドーム鉄骨部分がむき出しの残骸と化し、いつからともなく市民の間で「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。 

  

1953年(昭和28年)に広島県から広島市に管理が移管され、1966年(昭和41年)には広島市議会が原爆ドームの保存を決議。その後、風化が進み、国内外での善意の募金により3回の大規模な保存工事が行われました。また、世界遺産リストへの登録を求めて、市や市議会、広範な市民運動の結果、1995年(平成7年)6月に国の史跡に指定され、文化庁からユネスコに登録申請。1996年(平成8年)12月、世界文化遺産へ登録されました。

現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています。

 

1915年、広島県物産陳列館として開館。1945年の原爆投下により本体部は全壊したが、ドーム部は外壁を中心に残存。その後、存廃に付いてさまざまな議論の末、1966年に市議会が永久保存を決議、定期的に補修活動が行われている。登録審議ではアメリカは強く反対、中国も日本の戦争への反省が足りないとして棄権したが、「顕著で普遍的な意義を有する出来事と直接にまたは明白に関連するもの」として、1996年に世界文化遺産に登録された。

 

これまでに「悲惨な記憶を呼び起こすものだから撤去すべき」という意見も少なからずあり、その存廃についてたびたび議論されてきたが、1960年に被爆が原因と思われる急性白血病で亡くなった少女の日記の「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」という一文に後押しされる形で永久保存が決議され、今も定期的に補修活動が行われている。日没から日の出まではライトアップされている。

  

■「負の世界遺産」■

原爆ドーム(広島平和記念碑)(日本

核兵器の悲惨さを伝える建物。広島原爆で辛うじて残った、元広島県産業奨励館。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ポーランド

ナチス・ドイツユダヤ人を虐殺した強制収容所

ゴレ島セネガル

奴隷貿易の拠点となった島。

ザンジバル島のストーン・タウンタンザニア

東アフリカの主要な奴隷交易港。

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群アフガニスタン

重要な巡礼地であったことから、度重なる攻撃を受けた。

ロベン島南アフリカ共和国

人種隔離政策に反対した人達が収容された島。

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