旅行 中国・四国地方: 2010年6月アーカイブ

 2009年8月 旅行記から

 

26年の生涯 はあまりにも可愛そうな生涯なのです

  娘がいながら服毒自殺をしてしまう・・・そんな彼女の詩はなんとも暖かいものなのでしょうか?

「わたしと小鳥とすずと」は有名ですが・・・

童謡作家 金子みすゞ 

 長門市仙崎に大きな看板があります

 

 

MEMO0030.jpg『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
 金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。

 そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
 ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳で結婚したものの、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続きました。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。こうして彼女の残した作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなってしまうのです。

 それから50余年。長い年月埋もれていたみすゞの作品は、児童文学者の矢崎節夫氏(現金子みすゞ記念館館長)の執念ともいえる熱意により再び世に送り出され、今では小学校「国語」全社の教科書に掲載されるようになりました。
 天才童謡詩人、金子みすゞ。自然の風景をやさしく見つめ、優しさにつらぬかれた彼女の作品の数々は、21世紀を生きる私たちに大切なメッセージを伝え続けています。

                                 (写真提供:金子みすゞ著作権保存会)

 

★金子みすゞのウンチク★   フリー百科事典参照
 
 
金子みすゞ金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。
生涯★
本名は金子テル。山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津高等学校)卒業。劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(テルにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐(雅輔)の養父・上山松蔵とテル(みすゞ)の母が再婚するため、二人は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係でもある。

大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされる。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。

1926年(大正15年)、叔父松蔵の経営する書店・上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は未完)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺する[1]。享年26歳。

 作品 ★
代表作に「わたしと小鳥とすずと」「大漁」などがある。

仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている。自然ともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点とも言われ、「お魚」「大漁」などに繋がっている。

 忘却と再発見★ 
 
生家跡に建てられた金子みすゞ記念館金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ児童文学者の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されている。東京大学の国語の入試問題に採用された作品もある。また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されている。

また、長周新聞によると、かつて長周新聞の主幹であった福田正義が矢崎をはるかに遡る1937年、雑誌『話の関門』の中で金子みすゞの生涯と作品を紹介したとしている[2]。ただし、当時の福田の紹介は地元(下関)の雑誌で掲載されたものであり、後の矢崎の紹介ほど広く知らしめるには至らなかった。

 詩作の広まり ★
みすゞの詩は元々曲をつけられることを想定したものではなかったが、詩作への評価の広まりと共に、童謡・歌曲・合唱曲として中田喜直、吉岡しげ美、 李政美、沢知恵、野田淳子を初めとする作曲家や歌手によって広く作曲されている。西村直記、大西進のように、全ての詩に付曲した者もいる。2006年12月には「わたしと小鳥と鈴と」の詩に、作曲家の杉本竜一が曲を作り、テノール歌手新垣勉がアルバム「日本を歌う」内で発表している。この楽曲は、その年のNHK「みんなのうた」でも放送された。またピアニスト・作曲家の小原孝は、2006年、第17回奏楽堂日本歌曲コンクールにおいて「こぶとり~おはなしのうたの一」に作曲し、中田喜直賞を受賞。これを機会に「おはなしのうた」連作5編にすべて作曲している。数々のヒット歌謡の作曲家である浜圭介は、盟友大津あきらの墓所を訪れたことをきっかけにみすゞを知り、その壮大な世界観をフルオーケストラで表現したいと、8編に作曲。編曲・服部隆之、指揮・佐渡裕、演奏・新日本フィルハーモニー交響楽団、テノール・佐野成宏、ソプラノ・佐藤しのぶという豪華メンバーでのレコーディングを経て、CD「みすゞのうた―金子みすゞmeets浜圭介」(エイベックス・クラシックス)をリリースしている。

また、金子みすゞと同じ故郷山口県出身の歌手・作曲家ちひろは、金子みすゞの詩の50編近くに作曲し歌っており、「私と小鳥と鈴と」「星とたんぽぽ」は、歌集「さあ歌おう(山口県版)」に掲載される。CDアルバムも4枚リリースしている。


メディアへの露出としては、ラジオ大阪「1314 V-STATION」の携帯サイト「声優V-STATION」3分ラジオで2003年6月19日~2004年1月5日に金子みすゞの詩を朗読するプログラム「小森まなみのおやすみポエム」が公開され、後にCD化された。TBSラジオのミニ番組「童謡詩人・金子みすゞ」でも詩作の朗読が放送されていた。

また、みすゞの数奇な人生は後に映画・テレビドラマ・舞台などで演じられており、劇中で詩作が紹介されることも少なくない。

 みすゞを演じた人物★
小林綾子 - NHKスペシャル「こころの王国・童謡詩人金子みすゞの世界」(1995年8月27日)
田中美里 - 映画『みすゞ』(2001年、紀伊國屋書店制作、監督:五十嵐匠)
松たか子 - テレビドラマ『明るいほうへ明るいほうへ-童謡詩人金子みすゞ』(2001年8月27日、TBS)
高橋理恵子 - 舞台『私の金子みすゞ』(2002年・2004年、演劇集団 円、矢崎節夫著 「童謡詩人 金子みすゞの生涯」をもとに)
純名りさ - 舞台『みすゞとテルと母さまと』(2007年10月23日-25日、台本・総合演出:鈴木理雄、演出:小笠原響)
斉藤由貴・藤田朋子 - 舞台『空のかあさま』(2001年 - 、作:大薮郁子、演出:石井ふく子)
保谷果菜子-金子みすゞ いのちへのまなざし~詩と歌と物語~
小野山千鶴 - 舞台『金子みすゞ最期の写真館』(2005年 - 作 演出:早坂暁 音楽:磯村由紀子)
 著作権について★
金子みすゞの作品そのものの著作権は作者であるみすゞの死後50年を過ぎており消滅していると考えられるが(著作権の保護期間参照)、作品集を出版しているJULA出版局を窓口とする「金子みすゞ著作保存会」[3]は、みすゞ作品を利用する際には同会の許可を得るよう求めている。その理由としてJULA出版局は、著作の大半が生前未発表であったこと、ならびに未発表作品を一般に広めるきっかけとなった『金子みすゞ全集』(JULA出版局)による二次的著作権の存続を挙げている。このこともあり、みすゞ作品は青空文庫にも収録されていない[4]。 この点には、矢崎ら「金子みすゞ著作保存会」の姿勢に対して疑念を持つ者も存在し[要出典]、福田による紹介を取り上げた長周新聞も、著作を独占しているとして矢崎を記事内で批判している[5]。

 脚注 ★
1.^ カルモチンを服用したとされる(『金子みすヾ童謡集』内の矢崎節夫による解説)。
2.^ 『話の関門』を探し出そう参照。自殺当時のマスコミの扱いや遺族についても詳しい。
3.^ 「金子みすゞ著作保存会」には作品の紹介に貢献した矢崎の他に、みすゞの実子(娘)も関わっている。
4.^ 青空文庫公式サイトでは、「作者の死後、関係者の努力によって発掘された経緯を踏まえ、取り組むか否か検討中」としている。
5.^ 長周新聞の記事"『話の関門』を探し出そう"に記述あり。矢崎ではなく福田を第一発見者と主張する趣旨の記事だが、矢崎の姿勢そのものに対して「大きなもうけのため」としており、反資本主義的な見地からの批判を含んだ内容となっている。同紙の主幹だった福田は、日本共産党 (左派)を興して議長職を務めた経歴を持つ共産主義者であり、紙面の論調にもその影響が強くある。詳細は長周新聞の項を参照。


 

2009年8月 旅行記から 

昨日の陶板モニュメントの隣には
夏みかん・橙・柚子・ポン酢・調味料の製造販売/株式会社柚子屋本店


敷地内に設置されている黒御影石で作った「笠山日時計」は必見!です

●住所 : 萩市越ヶ浜明神池上る 
 

MEMO0010.jpg笠山日時計
笠山日時計は今から350年ほど前、朝鮮の宮廷内外で公衆時計として使われていた日時計の複製品です。
釜が天空を仰ぎ見る姿の日時計という意味で仰釜日晷(ぎょうひにっき)と呼ばれます。くぼんだ半球型の受影面に特徴があり、太陽が投影する影針の影で時刻と季節の両方を瞬時に知ることができます。
仰釜日晷(ぎょうひにっき)天文学を大いに発展させた李王朝第4代世宗王(1418年から1450年)が開発した。17世紀半ばに西洋式の時刻制度が導入されて制作した仰釜日晷(ぎょうひにっき)が現存しており、韓国の国宝(宝物845号)となっています。
現代の時刻制度は「平均太陽時」を使用してます。日時計は時刻を現代時刻と照合する場合には、「真太陽時」を「平均太陽時」に換算する必要があります。この換算のため「時差補正表」が石盤の前面に刻まれています。
詳しくはポケット冊子{笠山日時計}解説(別売り)をご覧ください。

 

  

 

お店ののぼりが画像に後ろに見えます・・

2010003.jpg

 かなり有名な日時計とのこと

 

 韓国製のオリジナルの仰釜型日時計は

日本では、精巧に製作された

仰釜型日時計が山口県萩市の

「柚子屋本店」にあり、「笠山日時計」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

2010.60009.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

MEMO0012.jpg  

時差補正表です 

 

 

   

 

★韓国の日時計のウンチク★  日時計と旅人ブログより参照

韓国の日時計は半球型の釜のような独特の形をしている。半球型の日時計は日本やヨーロッパはもちろん中国にもなく、韓国のみに現存する特別な形の日時計である。半球の直径はソウルの世宗大王(セゾンデワン)記念館の前にある模造品は80cmほどの大きなものであったが本物は30cm程度のものが多く、3cm位の小さなものもある。
 韓国の日時計は、「仰釜日晷」と書き、Aug Bu Il Ku(アウ ブ イル ク)と読む。「晷」の字は日本語にはなく、咎めるという字の上に日のような字を加えたものであるが、以下は便宜上、仰釜型日時計と書くことにする。「仰釜」とは底のくぼんだ釜が天空を仰いでいる形をいい、「日晷」とは太陽の影のことである。

 仰釜型日時計の特徴は、半球型のくぼんだ受影面にある。半球内面に投影されるノーモンの影の動きが天空の太陽の動きと相似しており、水平面型日時計に比べると太陽の位置とノーモンの影との関係がよくわかる。
 半球型にくり抜かれた内面に時刻線が定時法に基づいて縦線で描かれている。1日は12時間で96刻法(朝鮮後期の時間制度)になっている。日時計の一時(いちどき)が現代の2時間に相当し、一刻が15分に相当する。詳細については後述する。

 なお、2003年10月4日に開催された日本日時計の会の総会に続く研究発表会で、西山峰雄氏が、2002年7月2~5日に韓国清洲で開催された「アジア太平洋地域の天文機器、古文献」の国際会議で、羅逸星・名誉教授(NHA Tl-Seong, The Nha Il-Sen Museum of Astronomy)が「King Sejon's Sundial, Augbu Il Gui」と題して講演があったと報告され、そのときの英文梗概が配布され、仰釜型日時計のミニチュアが回覧された。

 仰釜型日時計は亀の背に乗っているものが多い。亀は万年生きるといわれている霊獣であり、そのために亀と日時計を組み合わせた縁起の良い置き物にしたものであろう。この形は「世宗実録」(1434年と1437年に発行)という朝鮮王朝の世宗大王時代(1418~1450年)の記録によると元の天文学者の郭守敬(カクシュケイ)が考案したものだという。

 日本で公開されている仰釜型日時計は京都の高麗美術館と上野の国立科学博物館の3階の時計の部にある。ここに2個ある韓国の仰釜型日時計は下記の高麗美術館のものと同じ形であるが、白磁製の象牙色のものと青銅製のうすい褐色である。

 高麗美術館には「白胎青磁亀形日時計」と呼ばれるものが1個あり、18世紀末のものだといわれている。高麗美術館の仰釜型日時計は常時展示されておらず、特別展の時などに展示されるようで、筆者が2003年7月に訪ねたときには展示されていなかった。
 高麗美術館の前に高麗美術研究所があり、文献も所蔵されている。高麗美術館では館報を発行しており、1997年4月1日発行の第34号に、日本日時計の会の後藤晶男会長が韓国の仰釜型日時計について特別講座として寄稿しておられる。この論文で韓国日時計のおおよその知識が得られる。

 また、後藤晶男会長が「モノ・マガジン」別冊の平成4年5月15日発行の第216号から平成4年8月15日発行の第223号まで、日時計について連載されたものの第6回が韓国の日時計で、写真も多く載っている。帝塚山「学園春秋」第21号(昭和58年3月20日、77-88頁)にも「韓国の日時計」として発表しておられる。今回の私の韓国日時計の旅もこれらを大いに参考にさせていただいた。

 なお、韓国の日時計のほとんどは仰釜型日時計であるが、半球型以外の水平面型や垂直面型のものなどもある。
・高麗美術館、京都市北区紫竹上岸町15、 Tel.075-491-1192
・国立科学博物館、東京都台東区上野公園7-20、 Tel.03-3822-0111
「笠山日時計」
 韓国製のオリジナルの仰釜型日時計は日本では前記の数カ所のものが知られているが、精巧に製作された仰釜型日時計が山口県萩市の「柚子屋本店」にあり、「笠山日時計」と呼ばれている。
 萩市と韓国京畿道利川市の市民有志が日韓両国の友愛と国際親善を願い、「韓日ワールドカップ共催」の年を記念して仰釜型日時計を製作することを思い立ち、2002年8月に利川市で製作され、夏蜜柑の加工商品で知られている「柚子屋本店」の敷地内に設置され、2003年9月6日に除幕式が行われた。監修は國守進・名誉教授(山口県立大学)があたり、韓国科学事物研究所(宝物コリア)が協力した。

 「笠山日時計」は今から約350年前、第4代王である世宗が製作した「仰釜日晷」(韓国宝物845号)の複製である。17世紀半ばに西洋式時間測定法が加わり、それまでの「十二時百刻法」が「十二時九六刻法」に修正された後のもので、17世紀後半・李朝時代の宮廷内外で公衆時計として使用されていた日時計である。日時計の本体は韓国で玉石と呼ばれる黒御影石でつくられている。黒御影石は結晶が光を受けて反射し、近くに寄ると見る角度によっては光の輝きが宝石のように美しく変化する。また、熱膨張係数がきわめて小さいので、測定用の定盤や精密機器の台座として利用されている。15分間間隔の「真太陽時」と季節(二十四節季気)を知ることができる。
 
「笠山日時計」の設置場所は、本社工場のある萩市椿東字奈古屋1189(笠山中腹海抜44m)、北緯34度30分、東経131度23分である。JR東萩駅より国道191号線を益田方面に約4km、笠山に向う山腹にある。
・柚子屋本店、山口県萩市椿東2552

★日時計のウンチク★   フリー百科事典『ウィキペディア参照 
 
ベルギーのビュートゲンバッハに設置された精密日時計。誤差±30秒。日時計(ひどけい)は、影を利用して視太陽時を計測する装置。紀元前3000年、古代エジプトで使われていたが、起源はさらにその前の古代バビロニアにさかのぼると考えられる。日晷儀(にっきぎ)、晷針。

古代ギリシア及び古代ローマで改良され完全なものができた。これはアラビアに伝えられた。(アラビアの天文学ではこれをノーモン(gnomon)という。)のちに、機械時計が発明されると、それにとってかわられた。現在は、主に庭園や建造物の装飾の一部として設置される。
概説★ 昼間しか使えないこと、晴天時しか使えないことを除けば、古代以来、誰でも見たり使ったりできる時計は日時計のみであった。現在もアナログ式時計を始めとする各種回転式メーター・つまみ式スイッチ・ねじなどの殆どが、右まわり(時計まわり)に行くと数が増えたり機能として用を足す(スイッチが入る)仕様なのは、北回帰線以北では、常に日時計の針がこの向きで回ったためである。  なお、右利きの人は右回しの力が強いから、ねじなど、右回りが多いとも考えられる。

中世に発明された機械時計は当初、誤差が大きかったので、これを補正するためにも日時計は使われた。

 日時計の設置★
日時計は緯度によって、指針を傾ける角度を変更しなければならない。大量生産された日時計は、設置場所に合わせて角度を変更する必要がある。日時計の指針の角度が固定されていて変更できない場合は、文字盤そのものを傾けて設置することにより補正する。イギリスでは指針の角度は45°のものが普通である。

完全に正確に動作させるには、日時計の指針は正確に天の北極(ほぼ北極星の方向)または天の南極を向かせる必要がある。日本国内では方位磁針の北は、天の北極から数度ずれているので、磁針を使って設置することは推奨されない。

 
均時差表視太陽日は完全には一定ではない。これは、地球と太陽の距離や、地球の運動速度が一定でないことに起因する。これによる補正は最大で16分29秒になる。また、夏時間を採用する国ではこれを補正する必要もある。補正用の表は「均時差表」として日時計に添付され、当日の日付が分かると、日時計の示す時刻から何分加算または減算すればよいか分かるようになっている。

日時計の示す時刻は、設置場所の時刻であるが、日本国内ではこれを日本標準時(明石時刻)に調整する必要がある(その他の国でも、必要であれば、それぞれの国や地方の標準時刻に調整する)。日本標準時との差は、設置者が計算しなければならない。5°ごとに20分の差が生じるので、たとえば明石から東へ5°離れた東京では、日時計の時刻から20分を減ずる。固定式日時計では、この差は均時差表の中に組み入れるか、文字盤の時刻をずらすことにより修正する。ただし文字盤の表示をずらす方式は、真ん中が12時ちょうどにならず美しくない。

 形状による分類★
 
コマ型日時計
赤道式日時計
垂直式日時計
垂直式日時計。徳島県文化の森総合公園内のオブジェ
旅行者用のリング型日時計(開いたところ)。実際には閉じて平らなリング状にすることができる
極軸式日時計
カルジオイド日時計

 コマ形日時計★
最も単純な日時計は、板の上に垂直に棒を1本立てたものである。アラビアの天文学ではノーモンという。このまま指針を天の北極に向ける。文字盤の目盛りが均等になるという表示上の利点がある。この型のものを日本語ではコマ型日時計という。形状は、丸い円盤の中心に棒を差し、そのまま斜めに立てかけたものを連想すると分かりやすい。

 赤道式日時計★
コマ形日時計に似た形式のもので、赤道式日時計がある。文字盤がボウル状になっているだけで、目盛りの振り方は同じである。この形式のものは、第一次世界大戦前まで、フランスで列車を正確に走らせるために使用された。最も正確な日時計はイスラム教の宗教暦(ヒジュラ暦)上の日付をはかるためにインドのジャイプールの権力者(カリフ)が石で造った赤道式日時計である。これは記念碑をも兼ねている。

 垂直式日時計 ★
建築物の壁にとりつけるものもある。この場合、文字盤の目盛りは三角関数を使用して計算されるため均等にならない。製造者たちは板を文字盤(face)、棒を指時針(gnomon)と呼ぶ。板は明るい色が望ましい。これは影が暗いためである。棒は、棒でも構わないが、強度の問題があるため、三角形の板状にされることが多い。これをさらに金属で補強することもある。最高級品は大理石で製造される。腐食を抑えるためブロンズで製造されることもある。この構造のものは日本語では垂直式日時計という。建造物が完全に真南を向いていなくても、設計により補正は可能。ただし、1日で最大12時間までしか表示できず、本体が建物自身の影に隠れると使用できない。これを防ぐには複数の壁面に日時計を設置することになる。日本にはあまり見られないが、ヨーロッパ諸国では、多くの人が見られるよう、教会の壁などに巨大なものが設置された。日本では大阪造幣局前の道路にあるが指時針は失われている。以前は造幣局近くの桜宮橋たもとにあったが、いつ・誰が設置したのか分かっておらず、新桜宮橋を架けるため現在の場所に移設された。

 庭日時計 ★
庭日時計は最も一般的なもので、文字盤の目盛りは垂直式と同じく三角関数を使用して計算されるので均等にならない。原理は垂直式と同じである。文字盤は地面と平行に取り付ける。地面そのものに設置するのではなく、台をつくりこの上に設置することで、見やすくなる。文字盤をガラス板などで作り、高い地点に設置することにより、下方から見上げるよう設計する方法もある。太陽さえ出ていれば、1台で日の出から日没まで使用できる。

この構造のものは、日本語では水平式日時計という。日本では垂直式よりはこちらのほうが多く設置される。

 携帯日時計★
携帯日時計は野外天体観測のため、または宗教的行事を行うために中世に開発された。最も成功した携帯日時計は、ディプティクという、2枚の文字盤が、ヒンジで固定されているものだった。指針は、文字盤の間に通された紐である。紐がぴんと引っ張られたときに、2つの文字盤はそれぞれが水平式と垂直式の文字盤となった。最高級品は、白い象牙に黒のラッカーで文字を記したもので、紐は絹糸かリンネルで作られた。

ディプティクのヒンジが地面と平行で、2つある文字盤が同じ時刻を指したとき、時計は正確に視太陽時を示した。さらにこのとき、ヒンジは真北を示す。またこのとき、紐でできた指針と地面との角度は、その地の緯度をも示すことになる。

2つある文字盤による調整は、正午前後と日没直前、日の出直後は使用できない。しかし、午前9時か午後3時ごろの誤差は4分である。

これは、ディプティクが、方位磁針や緯度計測器の役目も果たしたということを意味する。いくつかのディプティクは、緯度計測のために、目盛りとおもりのついた紐もついていた。また、地理的な角度測定をするための羅針図付きのものもあった。大きなディプティクは古代において(船などの)操縦に使用された。小さくポケットサイズのものもあった。

最も小さな携帯式日時計は、穴付きの突起がついた指輪や、ネックレスにつけられた装飾だった。これは日時計を所持していることを知られないようにするための細工でもあった。日光に当てると突起部分の影は指輪自身にかかり、その内側に記された目盛りで時刻を知ることができる。この形状のものは、観測者は今が昼か夜か、午前中かどうかは知っている必要があった。突起についた穴の位置は緯度により調整する必要があるため、この部分は動かして穴の位置が変えられるようになっていた。これは主に塔などに幽閉された人物などがこっそり使うためのものだった。

最近は、アメリカ軍の特殊部隊員の間で、ナイフに日時計を刻むのが流行している。万一、機械時計が故障しても、これは動作するためである。

日本では、江戸時代に紙の携帯式日時計があった。これは、指針の部分がこよりになっており、立てて影の長さでおよその時刻を知るというもので、当日の日付さえ分かっていれば、それなりに正確に時刻を出すことができた。これは旅人が好んで使い、シーボルトの記述にも残っている。

 柱型日時計★
古代ギリシャ人は、柱型日時計(plekhnaton)を開発した。柱型日時計は、水平または椀状の文字盤に、垂直な指針を立てたもので、指針の影の先端が時刻を示す。太陽の高さは季節により変わるので、同じ時刻でも影の先端の位置は変わる。そこで、毎日、同一時刻の影の先端を結んだ線を文字盤に刻めば、補正なしで1年中どの日の時刻も示すことができる。もちろんこの文字盤の線は現代ではあらかじめ計算が可能である。柱型日時計には、晴天時に文字盤の上に人が立つと、その影の先端が時刻を示すという、「かげぼうし日時計」と呼ばれる、面白い構造のものもある(後述)。柱型日時計は、季節により太陽の位置が変化するため、文字盤の表示が複雑になるという欠点がある。通常は、文字盤を2枚用意し、半年ごとに取り替えることで、文字盤の複雑性を回避する。

非常に正確な柱型日時計は、公的広場に文字盤を描き、旗竿のポールを指針にする。

 室内柱型日時計★
アイザック・ニュートンは、南に窓がある部屋用の室内柱型日時計を開発した。これには柱がない。窓から入った光を、固定した鏡で受け止め、天井と壁に文字盤をつくった。指針は、鏡によって反射した光そのものである。鏡が小さければ、光の点となって天井や壁を照らすため、これを利用した。毎日定時ごとに天井に印をつけていき、1年かけて時計は完成した。この時計は驚くほど精密に動作した。

その後、1943年に、オルシュティンにあるニコラウス・コペルニクスの居城オルシュティン城で、同じ原理のものが発見された。このため、この型の日時計の発明者はコペルニクスとされる。コペルニクスのものは、城内のある場所に鏡を置くと、反射した光が壁の印を伝うというものだった。ただし、コペルニクスは、1日の間で時刻を知るためにこれを用いたわけではなく、1年の長さを厳密に求めるために使ったと考えられる。しかし、1年という巨大な時間を厳密に計測するための装置であるので、これを日時計と呼んでも特に問題は生じないだろう。

 かげぼうし日時計 ★
かげぼうし日時計(アナレマチック日時計)は、英語ではカルジオイド日時計と呼ばれる、柱型日時計の一種である。

これまでの固定型日時計は、指針は文字盤に固定されているのが普通であるが、かげぼうし日時計は、指針が固定されていないのが特徴である。この型は、日付により指針を立てる位置を若干微調整することにより、正確な時刻を求めることができる。多くの場合、観測者自身が文字盤に書かれた日付の上に立ち、その影が時刻を示す。

柱型日時計は、文字盤がかなり複雑になる傾向があるが、この型は文字盤がきわめて簡易である。この型の日時計は、単に地面に文字盤が描かれているだけで、指針が存在しないためである。日本では、西脇市黒田庄町と瀬戸市民公園にあるものが知られている。

 正正午 ★
現代、東洋のいくつかの国[誰?]の郵便局は、正午のみを示す固定式日時計を使用して局内の機械時計を合わせている。

さきにも述べたとおり、地球の運動速度が一定でないため、太陽は正午に真南に来るとは限らない。しかし、毎日、正午に日時計の指針の先端の位置を記しておき、これを1年続ければ、翌年以降も正午のみを示す日時計を作ることが可能である。さらにこの影の位置を天文学的な計算から算出し、正午専用日時計をあらかじめ作って設置することも可能である。正午ちょうどの太陽は、数字の8の字を寝かせたような、不規則な位置の変化(アナレンマ)をしたのち、1年かけてまた元の位置に戻る。

(2009年8月 旅行記から )

 萩焼きの陶器は有名  そこで紹介

現在ビール工場は閉鎖になってました

そして、駐車場にあるので、気になる人しかわからないくらいに、山沿いに立て札があります

 

 

 萩の空から 萩の土から

  萩陶器板モニュメント

農民画家メレー「種蒔く人」を題材としており、萩焼当番357枚でつくられてます。

大型の陶器作品は萩焼きではまだ例が少なく多くの人々に萩焼の魅力が伝わること願い、ここ北長門海岸国定公園内の笠山に設置しました。モニュメントの前の畑には 萩ビール村塾に使用してる二条大麦を植えています。

萩焼は2002年1月国の伝統的工芸品として指定を受けてます

 

設置年月日  2003年11月

陶板制作者 樋屋勝枝

本体構造 鉄筋造り(幅5.17m、高さ7.48m、鉄筋重量3トン)

陶板寸法 全体(幅4.6m、高さ5.6m、陶板の総重量643kg)

       1枚(26.5cm☓26.5cm☓暑さ1.5cm)

陶板枚数  357枚(ヨコ17枚☓タテ21枚)  

 

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 その、陶板はこれです

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 本当に、あるので宣伝用の看板にしかみれません

 

多くの観光客の脚光はあびず、

  ひっそりしてます 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 人が前に立って

 遠近法でこの大きさ

 

  かなりの大きさです・・・

 

 1枚1枚が陶器で焼いてあるのです

  陶器も1枚が同じ色ではなく

   濃淡があり、かなりのすごい技

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 ★萩焼のウンチク★  フリー百科事典参照
萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器。一部長門市・山口市にも窯元がある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。

古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、模様は地味だが根強いファンが多く、市内界隈には新規を含め、多数の窯元が存在する。

 歴史

萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、朝鮮人陶工、李勺光(山村家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出したが、李勺光の系統、山村家は後に断絶した。一方で、明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立する他12代坂倉新兵衛が人間国宝の候補になるなどして萩焼を中興している。文化財の指定は意外と時間がかかっており、2002年1月に漸く、経済産業省指定伝統的工芸品の指定を受けた。

 

 [ 日本大百科全書(小学館)[ 執筆者:矢部良明 ]参照
 ]
萩焼(はぎやき)山口県萩市・長門(ながと)市で焼造される陶器。桃山時代の天正(てんしょう)~慶長(けいちょう)年間(1573~1615)、萩藩主毛利輝元(てるもと)が、朝鮮半島から帰化した陶工の李勺光(りしゃっこう)・李敬兄弟に御用窯として開窯させたのを発祥とする。萩城下坂下の東郊松本村中之倉(現萩市椿東(ちんとう))に築窯したので、この系列窯を松本萩といい、李敬を陶祖とした。これに対して兄勺光の一族が1653年(承応2)深川(ふかわ)村三之瀬(そうのせ)(現長門市)に分窯した系統を深川萩という。松江重頼(しげより)著『毛吹草(けふきぐさ)』に萩焼の名がみえ、都でもその存在が知られていたことがうかがえる。1663年(寛文3)三輪休雪(みわきゅうせつ)が松本に三輪窯をおこし、松本・深川の二系統が併存して今日に至っている。

初期萩焼窯とされる松本萩の坂窯の発掘では、茶碗(ちゃわん)、茶入、花いけなどの茶陶に加え、大量の日常雑器が出土している。また釉(うわぐすり)にも褐釉(かつゆう)が加わって今日の萩焼とは大きく異なり、唐津(からつ)焼や高取(たかとり)焼と同様に多様な作陶内容を示しており、藩窯でありながら一般庶民向け焼物も生産対象にあったことが推察できる。

防府(ほうふ)で出土する大道土(だいどうつち)を用い、特有の藁(わら)灰質の白濁釉をかけた、茶陶としての作風が樹立したのは江戸前期と思われ、茶人の間では「一楽、二萩......」と賞玩(しょうがん)された。びわ色の釉をかけた茶碗はわびの風情に満ち、使うほどに釉色が変化するところから「萩の七化け」の俗称がある。遺品には三島(みしま)・粉引(こひき)・刷毛目(はけめ)・井戸・熊川(こもがい)などの高麗(こうらい)茶碗を写したものが多く、割高台(わりこうだい)にも特色がある。

 

 

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